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乙毘射匱可汗(漢音:いつひしゃきかかん、拼音:Yǐpíshèkuìkĕhàn、生没年不詳)は、西突厥の可汗。莫賀咄乙毘可汗の子。乙毘射匱可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。 == 生涯 == 貞観15年(641年)、乙毘咄陸可汗(イビル・テュルク・カガン)配下の屋利啜らは謀って乙毘咄陸可汗を廃位しようと考え、唐に遣使を送ってきて新たな可汗を立てるよう請願した。太宗は遣使を送り、斎璽書で莫賀咄乙毘可汗(バガテュル・イビル・カガン)の子を立てて、乙毘射匱可汗とした。 乙毘射匱可汗は即位すると、弩失畢の兵を発し、白水胡城にて乙毘咄陸可汗を撃った。弩失畢の兵が敗れたが、乙毘咄陸可汗は民から見離されたことを知り、西の吐火羅(トカラ)国へ亡命した。 貞観23年(649年)2月、中国の使者が以前から乙毘咄陸可汗に拘束されていたので、乙毘射匱可汗はことごとく礼資をもって長安に送り帰し、ふたたび遣使を送って方物を貢納し、請婚した。太宗はこれを許可し、詔令で亀茲,于闐,疏勒,朱俱波,葱嶺の五国を分割し、聘礼(結納品)とした。5月、太宗が崩御すると、阿史那賀魯が反乱を起こし、乙毘射匱可汗の部落はそれに併合された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「乙毘射匱可汗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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