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九十九里浜(くじゅうくりはま)は、千葉県房総半島東岸にある、刑部岬と太東崎の間の、太平洋に面している全長約66キロメートルの海岸〔さわやか自然百景 千葉 九十九里浜 〕。日本の白砂青松100選と日本の渚百選に選定されている。 == 地理と名称 == ここを中心にして円を描くと、南西諸島を除く北海道から九州までが調度半円内に収まり、犬吠埼とともに日本列島を扇に見立てた要の位置にある〔 『千葉県の歴史』 4頁〕。また日本列島に沿って北上する黒潮がここを境に離れる個所でもあり、「黒潮文化」の北限に位置している〔 『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 12 千葉県』 17-18頁〕。だがその一方九十九里平野中央を流れる栗山川は「サケの回帰の南限の川」とされ、親潮の影響を受ける南端の地域でもある〔栗山川上流の旧山田町(現・香取市、サケの神社:山倉大神がある)の記録によれば、サケは昭和32年(1957年)までは自然遡上していたとのことである。その後両総用水と房総導水路の取水堰(横芝堰)のため自力では遡上できなくなっていたが、平成19年(2007年)に竣工した横芝堰の改修に伴い魚道が設置され、堰上流への遡上が復活している。〕。 沿岸には、日本全体の40パーセントに相当する80例にのぼる丸木舟の出土があり、九十九里浜は香取海とともに危険な犬吠埼沖を通過を避けて設定された、四国・近畿地方から東北地方を結ぶ水上交通の要衝であった〔犬吠埼沖を通過する東廻り航路が開かれたのは寛文11年(1671年)のことである。〕。北東側の下海上国造の領域には、古墳時代当時の海岸に面した高台にしゃくし塚古墳・北条塚古墳・御前鬼塚古墳などが築造され、その後壬申の乱に敗れた大友皇子の妃耳面刀自媛が父藤原鎌足の故地鹿島を目指し上陸したが、病に倒れ亡くなったといわれ匝瑳市野手には媛の墓とされる内裏塚古墳がある〔 『日本の神々-神社と聖地 11』 242頁〕。また平安時代、アテルイに敗れた征東大将軍紀古佐美が真光寺を建立〔 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 727頁〕、征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂は蝦夷征討の途中松崎神社に参拝したと伝えられ〔 千葉県の文化財 (多古町)松崎神社 木鼓 〕、天慶2年(939年)承平天慶の乱に際しては、寛朝僧正が難波津から下向している〔大本山成田山新勝寺 開山縁起 〕。なお、奈良時代東国巡錫のおり行基が海難防止のため一宇を建立したことに始まり、平安時代空海によって改修されたと伝わる不動院長勝寺は、その後幾度かの改修を経て維持され続け、文化遺産として現存している〔山武市 不動院長勝寺本堂 〕〔 『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 12 千葉県』 146頁〕。 ;九十九里の名称と由来 古名は玉浦(玉の浦)であるが、源頼朝の命で1里ごとに矢を立てたところ99本に達したという伝承から「九十九里浜」と言われるようになったとの説が有名で〔1里を近代の尺貫法の36町(1町は約109メートル)とすると17里弱なので、「九十九」は「多い」の意ともされるが、古くから用いられていた長さの単位の1里は6町であり、109メートル×6町×99里=約64.7キロメートルなので、実際にほぼ99里である。〕〔 『日本人として知っておきたい地名の話』 221-222頁〕、中央とされる山武市蓮沼には箭挿神社がある。またその故事に因んで、矢指浦の別称がある〔千葉県公式観光物産サイト-まるごとe!ちば- 九十九里浜 〕。 *まん丸や、箭挿(やさし)が浦の月の的 ---- 源頼朝〔神話の森 歌語り風土記 房総の頼朝 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「九十九里浜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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