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樺太工業株式会社(からふとこうぎょうかぶしきがいしゃ)は、大正から昭和初期にかけて存在した日本の製紙会社である。「製紙王」と称された実業家・大川平三郎が創業、経営していた。 昭和初期の大手製紙会社である王子製紙(初代)や富士製紙はいずれも明治時代、1870 - 80年代に設立されて発展した企業である。それらに比べて樺太工業は大正に入ってからの1913年設立と後発でありながら、1930年代には国内洋紙生産高の20%を占める業界第3位の製紙会社に成長していた。大手3社の合同に伴い1933年に消滅した。 == 沿革 == === 大川系企業群の形成 === 樺太工業は1913年、大川平三郎(1860年 - 1936年)と、大川が経営ないし関与いしていた5つの製紙会社の出資によって設立された。 創業者の大川平三郎は、第一国立銀行(後の第一銀行)などを設立した実業家渋沢栄一の甥にあたる人物で、渋沢が1873年に設立した王子製紙に16歳で入社した後、技術者として活躍し、創業期の王子製紙を支えていた。最終的には専務取締役となっていたが、経営権掌握を目指した王子の主要株主である三井財閥によって、1898年に王子を追われた〔四宮俊之『近代日本製紙業の競争と協調』、日本経済評論社、1997年、pp.15-17,21。ISBN 4-8188-0913-6〕。 王子を退職した大川は、ともに王子を辞職した技術者・職工など40人余りを引き連れて、当時静岡県で新工場を建設していた四日市製紙に移籍した。しかし引き連れてきた技術者・職工らと従来からの従業員との折り合いが悪く、大川自身も四日市製紙の株主と対立したため、1901年に上海にあったフランス系製紙会社に技術者・職工らとともに移籍した〔『近代日本製紙業の競争と協調』、pp.106-117〕。 1903年に帰国した後、経営が悪化していた熊本県の九州製紙(旧・東肥製紙)の経営再建に参加し、同社の社長に就任した。続いて中部地方での製紙工場建設に乗り出し、1906年に中央製紙(岐阜県)を、1908年に木曽興業(長野県)を設立した。この3社は大川が大株主兼経営者として所有・経営していた。このほかにも1908年に四日市製紙の役員に復帰(のち筆頭株主に、1918年社長に就任)、1909年には中之島製紙(大阪府)の会長にも就任した。これらの大川系企業5社の洋紙生産高は、1913年の時点で国内洋紙生産高の約20%を占めていた。業界首位の王子製紙(約32%)や富士製紙(約29%)に比べると格差があったものの、大川系企業群は王子・富士両社に次ぐ規模を有していた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「樺太工業」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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