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九条 幸家(くじょう ゆきいえ、天正14年2月19日(1586年4月17日) - 寛文5年8月21日(1665年9月29日))は、江戸時代初期の公家。藤原氏摂関家九条流の九条家の当主。関白・左大臣に昇った。初名は忠栄(ただひで)。また一字名として「匀」とも。 == 生涯 == 天正14年(1586年)、九条兼孝の子として生まれる。母は権大納言高倉永家の娘熙子。天正18年(1590年)2月21日、5歳で元服とともに正五位下左近衛少将に叙任され、以後も昇進を続ける。幸家は利発で、同年1月雪が降った際「雪ふれば鳥がすくみて枝にある」と読んだ(『多聞院日記』)。祖父の九条稙通はこの孫に期待をしたらしく、源氏伝授を息子の兼孝ではなく幸家に伝授しようとした。しかし、稙通と幸家の歳は79も離れていたため、賀茂社の賀茂尚久に「返し伝授」を託した。尚久は稙通の願いを叶え、元和5年(1619年)幸家34歳の時に源氏三ヶ秘決を伝授している。更にこの秘決は、寛政12年(1635年)跡取り息子の九条道房に受け継がれた。 正室には豊臣秀勝の娘・完子(さだこ)を娶り、武家とも良好な関係を持つ。なおこの高度に政治的な婚姻を仕立てたのは豊臣秀吉の未亡人の淀殿である〔宮本義己『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ、2010年)171-173頁〕。さらに岳母・江が徳川秀忠の正室として再嫁したことから、徳川将軍家御台所の婿という姻戚関係となり、朝廷と幕府の仲介役としても貴重な存在となる。幕府の後援もあり、慶長13年(1608年)には藤氏長者となり関白職に任ぜられた。同18年にいったん辞職するが、元和5年(1619年)再び関白となり、義妹和子の入内に尽力した。寛永8年(1631年)閏10月21日46歳の時に、名を幸家と改めた。また、東西両本願寺に娘を嫁がせており、両統の並立を後ろ盾とした。寛文5年(1665年)薨去。享年80。法名は惟忖院。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「九条幸家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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