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九谷焼(くたにやき)は、石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器である。 ==歴史== ===古九谷=== 大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として、始められるが、約50年後(18世紀初頭頃)突然廃窯となる。窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる、2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っている〔石川県埋蔵文化財センター 九谷磁器窯跡 、2012年1月9日閲覧〕。 「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手(しょんずいで)、五彩手、青手などに分類されている。祥瑞手は、赤の輪郭線を用い、赤、黄、緑などの明るい色調で文様を描いたもの。五彩手は黒の輪郭線を用い、青、黄、緑、紫などの濃色で文様を描いたものである。青手は、色使いは五彩手と似るが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式のものである〔佐賀県立九州陶磁文化館監修『古伊万里入門』青幻舎、2007、pp.36 -43〕。 これら「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群の産地については、戦前から1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という説が主張されはじめた〔河島達郎「「古九谷」は有田で生まれた? 」『科学朝日』〕。有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と図柄の一致する染付や色絵の陶片が出土していること、石川県山中町の九谷古窯の出土陶片は古九谷とは作調の違うものであったことなどから、「古九谷は有田の初期色絵作品である」との説が有力となった〔「「古九谷=有田」説有力に、論争に新展開――窯跡から色絵片、九谷は技術継承」『日本経済新聞』1991年11月16日付朝刊、36ページ。〕。 東京都文京区本郷の大聖寺藩上屋敷跡(現・東京大学医学部附属病院敷地)からは大量の古九谷風の色絵磁器片が出土した。1987年以降、これらの磁器片の胎土を蛍光X線分析、放射化分析によって科学的に調査した結果、肥前産の磁器と九谷産の磁器が抽出された。その結果、伝世品の五彩手古九谷や青手古九谷と同様の磁器片は肥前産であると判断され、一方、分析結果から九谷産とみなされる磁器片は伝世の古九谷とは胎土、釉調、成形などの異なるものであると判断された〔大成可乃・堀内秀樹「本郷キャンパスにおける発掘調査の成果東大構内出土「古九谷」と生産地論争」西秋良宏編『加賀殿再訪 東京大学本郷キャンパスの遺跡』(東京大学コレクションX)、東京大学総合研究博物館、2000〕。 以上のような窯跡の発掘調査や出土品の化学分析などの結果から、従来古九谷と位置づけられてきた一群の初期色絵磁器は、その大部分が1640 - 1650年代の肥前産と考えられている〔矢部良明監修『カラー版 日本やきもの史』、美術出版社、1998、pp.96 - 97〕。しかし、1998年、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もある〔寺尾健一『窯別ガイド日本のやきもの 九谷』、淡交社、2003〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「九谷焼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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