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九鬼 嘉隆(くき よしたか、)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。九鬼水軍を率いた水軍武将であり、九鬼氏の第8代当主である。 志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、3万5,000石の禄を得た。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。 == 生涯 == === 前半期 === 天文11年(1542年)、九鬼泰隆が志摩国英虞郡での拠点とする波切城(三重県志摩市大王町波切)で、定隆(泰隆の嫡男)の三男として生まれる。母は英虞郡甲賀(志摩市阿児町甲賀)の出身とされる。泰隆には城が二つあり、答志郡の田城城(鳥羽市岩倉町)では、定隆の長男・浄隆が生まれている。 九鬼氏の出自は不詳であるが、家伝書には藤原北家の子孫で、紀州九鬼浦(現在の尾鷲市九鬼町)から志摩波切の川面氏の養子に入った隆良が武勲を上げ、地元の五奉行と呼ばれる者に推されて地頭になった。しかし隆良には子がなく、英虞郡和具(志摩町和具)の青山豊前の次男を養子にしたと記させた。嘉隆は血が繋がらないものの隆良から数えて6代目に当たる。 天文20年(1551年)、定隆の死去により、家督は長兄である浄隆が継いだ。永禄3年(1560年)、志摩の地頭のうち、12人が伊勢国司・北畠具教の援助を受けて田城城を攻めた。嘉隆は城主浄隆を助けていたものの、浄隆は戦の最中に死亡してしまい、嘉隆は浄隆の子・澄隆を助けたが、城主を失った九鬼側は戦意を失い惨敗する。そして嘉隆ら残党は朝熊山へ逃亡した。その後、嘉隆は滝川一益の仲介により、桶狭間の戦いを制して勢いに乗る織田信長に仕えたとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「九鬼嘉隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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