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九鬼氏(くきし)は南北朝時代から江戸末期まで活躍した一族。江戸時代に作成した家系図には藤原氏の末裔と記したが明確にはわかっていない。 == 南北朝時代・室町時代 == 出自は詳しくわかっていない。九木浦(九鬼浦)に移住した熊野本宮大社の八庄司の一派が地名から九鬼を名乗ったと『寛永諸家系図』に記されているが、異論が多い〔九鬼氏系譜 〕、〔近藤安太郎 『系図研究の基礎知識』第4巻、近藤出版社、1990年。〕。南北朝時代に京都で生まれた藤原隆信が伊勢国佐倉〔三重郡佐倉村、桜村佐倉、現・四日市市桜地区桜町、桜新町、桜台、桜台本町、桜花台、および智積町の一部。桜駅、智積寺、智積養水などの所在地〕に移住したのちに紀伊国九木浦に築城し、九鬼隆信を名乗ったとする説もある〔。 九鬼氏は熊野で勢力を伸ばせずにおり、3代目隆房の次男の九鬼隆良は新天地を求め波切村の川面家の養子となり、波切城城主になった。この時期は貞治年間(1362年 - 1366年)とするのが定説であるが、元中年間(1384年 - 1393年)とする異論もある。隆良は子に恵まれなかったため、志摩和具の青山家から養子を迎え、波切九鬼2代目の隆基となった。この時点で本来の九鬼氏の血統は断絶している。 ただし『系図研究の基礎知識』(近藤安太郎、1990年)によれば、3代目とされる九鬼隆良は分家であり、本家は隆良の兄・隆長であるとする(隆良系は7代で絶える)。隆長のあとは光長・政長・政隆・浄隆・澄隆と続き、澄隆の異母弟・光隆が家督を継いだが熊野地方に留まり、光隆の弟の嘉隆は北畠氏に仕えたと伝える〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「九鬼氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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