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乾セン子 : ミニ英和和英辞書
乾セン子[かんせんし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けん, ほし]
  1. (pref) dried 2. cured
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

乾セン子 : ウィキペディア日本語版
乾セン子[かんせんし]

乾𦠆子(かんせんし / けんせんし)』は、晩唐の詩人温庭筠が撰した伝奇集。
「𦠆」には饗膳用の調理された肉という字義があり、集名は𦠆となって人々に悦ばれる乾し肉ような集となる事を期して命名したものという〔『郡斎読書志』(袁州本)巻3下に載せる乾𦠆子序(今村与志雄訳『酉陽雑俎5』「解説」、平凡社東洋文庫、1981年、に拠る)。〕。なお、「饌」が「𦠆」の別字とされる事がある事から「乾饌子」と表記する場合もある〔今村与志雄は前掲解説や『唐宋伝奇集(下)』(岩波文庫、1988年)で「饌」字を使っている。〕。
南宋鄭樵通志』巻68(芸文略第六)では1巻とされているが、宋代の『』巻27や『新唐書芸文志3(志第49)等には3巻とあり、元来は3巻であった蓋然性が高い〔黒田真美子『枕中記・李娃伝・鴬鴬伝他』(中国古典小説選5)収載「陳義郎」余説、明治書院、2006年。陳振孫直斎書録解題』巻11や前掲『郡斎読書志』(衢州本)巻13にも3巻と記録されている。〕。元代に編まれた『宋史』の芸文志には見えないので宋末には既に原集は失われていたものと思われ、宋代の『太平広記』に拾われた33則〔但し、その中で巻496「雑録四」に収める「厳震」は清代の陳鱣(ちんてん)校本が「乾𦠆子に出づ」とするものの、明代の談刻本は出処を闕き、野竹斎鈔本は出処をの『』としていて一定していない。なお、談刻本、陳氏校本、野竹斎鈔本それぞれに就いては「太平広記#刊本」参照。〕と、節略されてはあるが(カ?)『』に収める20則〔但し、その中の6則は広記と重複している(黒田前掲余説)。〕が遺されている。また『広記』では出処を異にするものの本来は本集中の作品と疑われるものもあり、これら遺則は清代にも、例えば集中の「華州参軍」が『柳参軍伝』として単行されたり〔諸井耕二「温庭筠の『乾𦠆子』について」『中国文学論集』第2号、九州大学中国文学会、昭和46年所収(九州大学附属図書館「九大コレクション」 )。〕、の『重較説郛(ちょうかくせっぷ、ちょうこうせっぷ)』の巻第23に11則を収めている如く各種叢書に収録され乍ら、現在迄伝わっている〔黒田前掲余説。〕。
成立年代は不明であるが、南唐の劉崇遠(りゅうすうえん)『金華子雑編(きんかしざつへん)』巻上に、温が流されて随県となってに属す事があり、時に随県の西、襄陽峴山(けんざん)に段成式が退隠していたので、意気投合した両者が「遞(たが)いに故事を捜」し合ったという記載がある。晩年の段は襄陽に閑居しており、温の流謫は大中13年(基督教暦859年)頃の事なので、この両者の親交の過程で本集が撰されたと考えれば、それは大中13年乃至咸通元年(同上860年)頃であると仮定できる〔黒田前掲余説。〕。なお、温と段の関係は、温の女が段の男に嫁すといったように密なものであり、「乾𦠆子」という書名にもその事が窺える。即ち、段は食通でもあり、『酉陽雑俎』の序文で経・史・子部の書をそれぞれ羹(あつもの)、折俎(せっそ。食べ易いように切り分けて俎(食器)に載せた肉料理)、醯醢(かいけい)に喩え、対して自身はそれらに副える「炙鴞羞鼈(しゃきょうしゅうべつ)」(焼き鳥鼈料理)として志怪の書を集めて飲食時の余暇にそれらを思い出すままに誌した為に、料理に因む「俎」字を集名に付けたと述べており、それは「乾𦠆子」の謂われにも通じるので、温はこの雑「俎」を意識して自身の撰集を命名したものとも想像されるのである〔今村前掲解説、溝部良恵『広異記・玄怪録・宣室志他』(中国古典小説選6)収載「酉陽雑俎(抄)」解説、明治書院、2008年。〕。また、温は伝奇集『甘沢謡(かんたくよう)』の撰者袁郊(えんこう)とも交遊があったので、その影響があった可能性もある〔諸井前掲論考。〕。襄陽では温と段を中心とする文人集団が成立していたと見られ、唐代小説の殆どは知友間や同好の集団内の交流から生まれたものと想定できる事から、そうした環境の中で本集も成立したものと推考される〔黒田前掲余説。〕。
現伝する諸則は節略もあってか『重較説郛』11則等、ごく短い逸話的なものが多く、比較的長い作品も小説としての結構は備えるものの、魯迅が『中国小説史略』の中で「僅かに事略(すぢ)を錄したもので、簡率で大したものではなく、その詩賦の豔麗(えんれい)とは似てゐない」と評している如く〔第10篇。引用は增田渉訳『支那小説史』上、岩波文庫、昭和16年に拠る。〕、情緒的描写よりは物語の展開に重きを置いている点が認められ、繊細なで知られる温の著作とすると少しき違和感を覚えしめるが、詩詞と小説とは本来発想や構成を異とするのものと考えると、小説における作家温の創作姿勢は物語の展開を優先する事、敢えて魯の言う僅かな事略の叙述に徹する事で「変化ある物語、興味ある話を創り出そうとしている点」にあったと認める事も出来〔諸井前掲論考。引用も同じ。〕、温の残した本集の幾則は筋の展開を淡々と叙しつつ人生に起こり得る不条理の断面を「奇」とし、それを「伝え」ようとするそうした小説であると評価される〔前掲諸井論考、黒田書「陳義郎」解説。〕。温は20代の初めから凡そ20年間科挙を受け続けたが結局及第する事は無かったというので、自己の才を誇りつつもそれが認められずに挫折し、そこから来た絶望に依ってのみ見通せる人間や社会、時代の本質を鋭敏に捉えて簡潔な文に認めたとも考えられ〔黒田前掲書「王諸」余説。〕、そうでないとしても、六朝期の志怪の書が怪異を含まない志人小説を経て中盛唐期の伝奇小説へと発展し乍ら再び志怪の世界への逆行を示しつつあった晩唐期において叙された本集の幾則かは、中国小説の可能性を広げその発展に寄与した貴重な存在であると言える〔諸井前掲論考。〕。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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