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乾正信 : ミニ英和和英辞書
乾正信[いぬい まさのぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けん, ほし]
  1. (pref) dried 2. cured
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

乾正信 : ウィキペディア日本語版
乾正信[いぬい まさのぶ]

乾 正信(いぬい まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将土佐山内氏の家臣。板垣退助の直系の先祖にあたる。家紋は「榧之内十文字」。
== 生涯 ==
甲斐武田氏の家臣・板垣信憲の嫡男として甲斐国で生まれる。父・信憲は板垣信方の嫡男であったが、主君・武田信玄の勘気を被り改易となり、天文22年(1553年)、私怨により本郷八郎左衛門に殺害された。この時、正信は幼少であったため、従者の北原羽左衛門都築久太夫の両名に供奉され籠居したとされる。正信の弟・板垣正寅は父が殺害された後、生母と共に一旦丹波国へ籠居し、のち京都・南禅寺に預けられて育った。正寅は聡明さを認められて還俗し、京都下御霊神社斎部信英の女を娶り社家を継ぎ、下御霊神社出雲路家の祖となった〔『遠碧軒記』黒川道祐著、延宝3年(1675年)〕。
正信は武田氏滅亡後、同じく浪人となっていた孕石元成らと共に乾和三の推挙を得て、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐陣借りして奮戦し遠江国掛川城主となった山内一豊に、同年10月7日に召抱えられた。このとき遠江榛原郡勝間田麻生村に知行136石を下し置かれた〔『南路志』巻50所収の古文書、「天正18庚午年(1590年)より慶長5年迄於遠州掛川被 召抱士(えんしゅうかけがわにおいて、めしかかえらる、さむらい)」によると、「一、百三十六石 乾加兵衛正信。天正十八年十月被 召抱。慶長六年千石、内鐡炮廿挺。二代金右衛門正行。實山内刑部一照次男。(山内)但馬一長弟。慶安二年十二月死。三代與三兵衛。當左近兵衛家也」とある。〕(孕石元成も一豊に召し抱えられ200石を賜った)。その後、20人の鉄砲衆を従えて御馬廻役に列した。
慶長6年(1601年)、主君・山内一豊が土佐国に封ぜられた際、知行1000石(内200石は鉄砲衆の役料知)を下し置かれた。慶長13年1月17日(1608年3月3日)に病死。土佐土佐郡薊野村(現 高知県高知市薊野東町)板垣山に葬られた。
正信の跡は、養子・正行山内一照の二男)が継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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