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乾 正士(いぬい せいし、慶応4年3月25日(1868年4月17日) - 昭和16年(1941年)6月18日)は、日本の軍人。土佐藩士・板垣退助の庶長子。母は萩原復斎の娘、龠(やく)。退助の嫡男子・板垣鉾太郎より2ヶ月早く出生したが、庶長子のため二男として育てられる。士族。 == 来歴 == 板垣退助の分家・乾市郎平正厚が、長州・周防探索御用に出て活動するも、その後、明治2年~3年頃消息不明(死亡と推定される)となり、無嗣であったため、正厚家の家格を維持するために、同家の養子となり家督相続する〔※土佐藩士族の乾姓のうち、板垣退助の血縁の乾家はこの一家のみである。同藩士中で他の乾姓は、安土桃山時代末期の乾備後和三(乾彦作和宣の弟)の血縁で別流である。〕。養子に出たとはいえ、正士が幼少のため五歳まで退助の家で育てられた。 長じて東京専門学校(現 早稲田大学)を卒業後、近衛師団に入営。 明治28年(1895年)北白川宮能久親王に率いられ征台之役に従軍。同年5月29日台湾北部に上陸し、6月7日の台北平定をはじめとして戦績を上げた。 明治30年(1897年)台湾総督府東港郵便電信局〔現在の台湾屏東県東港鎮にあった郵便電信局。〕の書記官として奉職。黄熱病に罹り療養のため内地へ帰還。 明治34年(1901年)2月7日、長野県の初期養蚕業の功労者で、養蚕術研究家 高野成雄の姉・八重野と婚姻。 明治34年(1901年)3月、長女 美世子(みよし)が生まれる。 明治37年(1904年)3月、二女 朝子が生まれる。 明治41年(1908年)1月、長男 一郎が生まれる。 大正4年(1915年)6月27日、妻 八重野が高知教会で洗礼を受ける。 大正6年(1917年)9月30日、妻の受洗により、正士も高知教会で洗礼を受けて〔『高知教会百年史』高知教会百年史編纂委員会編、1985年による。〕プロテスタントとなる。 大正8年(1919年)2月1日、長女 乾美世子が日本福音ルーテル八幡教会の創始者・川瀬徳太郎牧師と婚姻。 大正9年(1920年)3月14日、二女 乾朝子が、高知教会で洗礼を受ける。 昭和12年(1937年)3月、二女 乾朝子が中村清次郎と婚姻。 昭和16年(1941年)6月18日召天。享年74歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「乾正士」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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