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海援隊(かいえんたい)は、江戸時代後期の幕末に、土佐藩脱藩の浪士である坂本龍馬が中心となり結成した組織である。1865年から1868年まで3年余りに亘り、私設海軍・貿易など、薩摩藩などからの資金援助も受け、近代的な株式会社に類似した組織、商社活動としても評価されている。運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、教育(修行科目 政法・火技・航海・汽機・語学等)等、隊の自活運営、政治・商事活動を行った。出版も手掛け和英通韻伊呂波便覧、閑愁録、藩論などがある。中岡慎太郎が隊長となった陸援隊と併せて翔天隊と呼ばれる。 == 沿革 == 1865年閏5月、幕府機関である神戸海軍操練所の解散に伴い、薩摩藩や商人(長崎商人小曽根家など)の援助を得て長崎の亀山(現在の長崎市伊良林地区・)において前身となる亀山社中(かめやましゃちゅう)が結成され、当初は、貿易を行い、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得ながら、海軍、航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走していた。 神戸海軍操練所時代に考えていた実践でもあり、目的はこれらの活動を通じて薩長の手を握らせることにもあった。 グラバー商会などと取引し、武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で購入、長州へ渡すなどの斡旋を行い、険悪であった薩摩と長州の関係修復を仲介する。1866年3月、薩摩の西郷隆盛(吉之助)・長州の木戸孝允(桂小五郎)を代表とする薩長同盟の締結に大きな役割を果たす。 1866年6月の第二次幕長戦争(第二次長州征伐)においては長州藩の軍艦ユニオン号で、下関海戦に参加、幕府軍を相手に戦い、長州の勝利に大きく貢献する。 1867年4月には坂本龍馬の脱藩が許されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関として「海援隊」と改称される。海援隊は土佐藩の援助を受けたが、基本的には独立しており、脱藩浪人、軽格の武士、庄屋、町民と様々な階層を受け入れ「海援隊約規」には「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志のある者、この隊に入る」「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」とあり、射利つまり利益の追求が堂々と掲げられていた。会社と海軍を兼ねた組織であり、航海術や政治学、語学などを学ぶ学校でもあった。 いろは丸沈没事件においては、紀州藩に賠償金を請求する。 また慶応三年七月に中岡慎太郎は陸援隊を組織する。 倒幕運動に奔走するが大政奉還、内戦回避の坂本と薩摩・長州の武力倒幕では意見が相違した。 同年11月15日(12月10日)、京都・近江屋で坂本が陸援隊隊長の中岡とともに暗殺されると求心力を失って分裂し戊辰戦争が始まると長岡謙吉らの一派は天領である小豆島などを占領し菅野覚兵衛らは佐々木高行とともに長崎奉行所を占領し、また小豆島も治めた。長岡兼吉が慶応4年4月土佐藩より海援隊長に任命されたが、同年閏4月27日(6月17日)には藩命により解散される。土佐藩士の後藤象二郎は海援隊を土佐商会として、岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させる。 坂本は蝦夷地(北海道)開発事業に着手する計画を持っていたといわれ、のちに親族の坂本直寛が遺志を継ぎ明治時代に北海道空知管内浦臼町に入植している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「海援隊」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kaientai 」があります。 スポンサード リンク
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