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亀田藩(かめだはん)は、出羽国(羽後国)に存在した藩で、岩城氏を藩主家とした。藩庁は亀田城(秋田県由利本荘市岩城亀田)に置かれた。 == 藩史 == 岩城氏は常陸平氏の血を汲む名族であるが、戦国時代中期の当主岩城重隆は娘を伊達晴宗に嫁がせ、その長男である岩城親隆を養子に迎え後継としたため、親隆とその子の常隆は伊達氏の男系の血筋ということになる。戦国時代の所領は、磐城12万石であった。 小田原征伐直後に当主の常隆が病死したため、佐竹義重の三男・岩城貞隆(実母は伊達晴宗の娘)が岩城家を継いだ。常隆には実子政隆がいたが、伊達氏に戻っている。 関ヶ原の戦いでは東軍方になったが、貞隆が兄佐竹義宣の命に従って、会津征伐に参加しなかったため、磐城12万石を改易された。 1616年(元和2年)に信濃中村藩(川中島藩)1万石に再封となった後、岩城修理大夫吉隆(後の佐竹義隆)が1623年(元和9年)に加増の上、出羽亀田2万石に転封となり成立した。 1628年(寛永5年)に吉隆が佐竹家の養子に入ったため、叔父岩城但馬守宣隆が岩城家を継ぎ、4代藩主岩城伊予守秀隆までは、佐竹家の血縁であった。 佐竹家は岩城家転封後の亀田藩の検地・城下建設などを全面的に支援したが、その後も藩政に介入するようになったため、様々な争いが起きている。それに伴い、久保田藩と亀田藩の間に相互不信が募っていくようになった。 1718年(享保3年)、貞隆・宣隆の系統が断絶した結果、久保田藩佐竹家と亀田藩岩城家の血縁関係はなくなり、さらに仙台藩伊達家から岩城河内守隆恭が養子に入り、6代藩主となった。隆恭は伊達政隆の直系の子孫であり、常隆の系統が150年ぶりに岩城氏当主に返り咲くことになった。これ以降、亀田藩と仙台藩との関係が強まっていく。 1868年(慶応4年)の戊辰戦争では、東北諸藩と結んだ奥羽越列藩同盟に参加したが、久保田藩の呼びかけで本荘藩・新庄藩・矢島藩とともに同盟を脱退し、新政府側に与した。しかし亀田藩は新政府軍の先鋒として酷使され、庄内軍に敗れた新政府軍が本荘・亀田を見捨てた後、庄内藩の説得に応じ、8月8日に和議が成立した。その後、庄内軍とともに戦ったが、援軍により勢いを盛り返した新政府軍に敗れ、9月28日に降伏した。 最終的に新政府の敵となったため、亀田藩は2000石の減封となり、明治時代に至った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「亀田藩」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kameda Domain 」があります。 スポンサード リンク
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