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了智上人 : ミニ英和和英辞書
了智上人[りょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りょう]
  1. (n,vs) finish 2. completion 3. understanding 
: [じょう]
 (n,pref,suf) 1. first volume 2. superior quality 3. governmental 4. imperial 5. top 6. best 7. high class 8. going up 9. presenting 10. showing 1 1. aboard a ship or vehicle 12. from the standpoint of 13. as a matter of (fact) 13. superior
上人 : [しょうにん]
 【名詞】 1. holy priest 2. saint
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

了智上人 ( リダイレクト:佐々木高綱 ) : ウィキペディア日本語版
佐々木高綱[ささき たかつな]

佐々木 高綱(ささき たかつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将である。
近江国の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の4男。『平家物語』や『源平盛衰記』にその活躍が描かれ、宇治川の戦いにおける梶原景季との先陣争いで知られる。歌舞伎の『鎌倉三代記』にも登場し、非常に人気のある武士である。
== 生涯 ==
永暦元年(1160年)出生〔『乃木大将事跡』の乃木家系図では兄の定綱と混同して康治元年(1142年)としている〕。平治の乱の後、父や兄が東下する際には、幼少のため同行はせず、吉田の叔母の下で育ったとされる。治承4年(1180年)に源頼朝伊豆国平氏打倒の兵を挙げると、兄弟の定綱経高盛綱と共にそれに加わって、山木兼隆を討つ。石橋山の戦いでは椙山に奮戦して頼朝の危急を救った。元暦元年(1184年)正月の木曾義仲追討では源義経の陣に従い、宇治川の戦いでは、頼朝に与えられた名馬「生唼(池月)いけづき」にまたがって梶原景季と先陣を争い、初めは遅れをとるが、景季に馬の腹帯が緩んでいるので締め直す様に薦めて行わせ、その間に先陣を切る。高綱の館は、今の横浜市港北区鳥山町にある八幡宮付近にあったとされ、その愛馬「生唼」は、そのすぐ近くに馬頭観音として今もまつられている。
文治3年(1186年)に長門備前守護へと任ぜられる。また安芸周防因幡伯耆出雲日向などに恩賞地を拝領している。東大寺再建にあたり、材木の事を奉行して頼朝から杣出しの功を賞された。建久6年(1195年)に家督を子の重綱に譲って高野山大悲金剛院に出家し、西入(さいきゅう)と号した。諸国を巡回したと伝えられ、各地には高綱を由緒とする寺社や宝物が多く残る。
建仁3年(1203年)10月、延暦寺堂衆騒擾の時、高野山から下って騒擾鎮圧に赴く兄経高・盛綱に兵略を説き、嫡子重綱が、山地戦に際し体に合わない重厚な鎧をまとって出陣したことから、その死を予言したと伝えられる。その後、建保2年(1214年)11月、信濃国筑摩郡(現長野県松本市)で死去。なお、『乃木大将事跡』の乃木家系図では建保4年(1216年)としている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐々木高綱」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Sasaki Takatsuna 」があります。




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