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二宮 寛(にのみや ひろし、1937年2月13日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。 == 来歴 == 慶應義塾大学在学中の1958年より、日本代表選手として活躍。卒業後、三菱重工に入社、同社サッカー部の中心選手としても活躍する。三菱重工監督、日本代表監督(1976年6月-1978年12月)もつとめた。 二宮が代表監督に就任したときは、銅メダルを獲得した68メキシコ五輪組の多くは代表を既に去っており、完全に弱体化していた。二宮に説得され、残ったエースのFW釜本邦茂も33歳となった翌77年、自ら代表から退き「誰が監督をやっても負ける」ような状態だった。 二宮本人はこの状況を「荒れ野に1人放り出されたような気分。種まきから始める決意」にて代表監督に臨んだと後述している。 サッカー指導者としての二宮は次々と改革を行った。就任直後に実行したのが、旧西ドイツ・ブンデスリーガの複数のクラブに代表候補選手を短期間(結果、都合2ヶ月にも及ぶ)預けるという、分散合宿を実施した。これは、当時、「世界最強リーグ」とされていた、ブンデスリーガのクラブの高い練習レベルを日本人選手に体験させるという画期的な試みであった。 また、当時は代表選手と言えど合宿中は練習着は現在と違い、選手個々が自前の練習着を持ち込んでいた時代であったが、ここでも二宮は環境の整備にも着手し、練習着の統一・食事の改善等、”代表であることの喜び””代表であることの重み”を選手にも考えさせるなど、現代の目から見ても理にかなった改革を次々に実施したが、JFA幹部は「甘やかしている」と見た。結果が出ず、協会の支持も失っては二宮は結果辞任する。 サッカー指導者を退いてからは、三菱自動車に移籍し、後に欧州三菱社長にも就任する。持ち前のインテリジェンスで国際派ビジネスマンとして主に欧州を股にかけ活躍した。 2000年に同社を退職後は、葉山町に移り、コーヒーショップ「パッパニーニョ」を経営している。大仕事を終えた充実感が漂い、現在は趣味を活かして悠々自適の生活を送っているといえる。「パッパニーニョ」のコーヒー豆は通販も可能で、また横浜駅に新設された伊勢丹の地下などでも購入が可能である。 ドイツサッカー界に知人が多く、西ドイツの名監督であるヘネス・バイスバイラーを信奉していた。現在のコーヒー店名は、フランツ・ベッケンバウアーが命名したものである。また、日本代表監督時代に、当時の日本の名選手・奥寺康彦の西ドイツ・ケルン移籍の橋渡し役ともなった。また、当時の代表選手で現在Jリーグ理事を務める数名からは「アマチュア体質の協会から見れば二宮さんは異端児で、今思えば、監督になるのが早すぎた」と語る者もある。 2015年、第12回日本サッカー殿堂入り〔〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二宮寛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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