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二月騒動(にがつそうどう)は、鎌倉時代中期の文永9年(1272年)2月、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。 北条氏の嫡流を争う名越流と異母兄時輔を討伐した事で、執権時宗に対する反抗勢力が一掃され、得宗家の権力が強化された。 == 背景 == 文永5年(1268年)正月、高麗の使節が大宰府を来訪、蒙古(元)への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。3月、蒙古襲来の危機を前にして鎌倉幕府における権力の一元化を図るため、北条氏嫡流である得宗家の北条時宗が18歳で8代執権に就任した。時宗の庶兄である北条時輔は、文永元年(1264年)に時宗が14歳で連署に就任した際、京の六波羅探題南方へ出向していた。南方の上位である北方は、得宗支援者の北条時茂であったが、文永7年(1270年)に死去し、後任がないまま六波羅探題は時輔の影響を強くしていた。 一方、名越氏は北条一門でも九州に多くの守護職を持ち、嫡流の得宗家に次ぐ勢力があった。時宗の父で5代執権北条時頼の時代に、長兄の名越光時らが宮騒動で処罰されており、弟の名越時章・教時は連座を逃れたが、教時は前将軍宗尊親王の側近であり、依然として反得宗の傾向があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二月騒動」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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