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二条 教基(にじょう のりもと)は、南北朝時代の公卿・歌人。関白左大臣二条師基の子。南朝に仕えた。 == 経歴 == 南朝の補任記録が残されていないために具体的な官歴については不明である〔近世の偽書とされる『南朝公卿補任』によれば、教基の官歴は以下のとおりである(『系図纂要』も同様)。 延元4年(1339年)従三位、興国2年(1341年)権中納言正三位、同4年(1343年)権大納言、同5年(1344年)従二位、正平2年(1347年)左大将正二位、同8年(1353年)内大臣、同9年(1354年)従一位、同10年(1355年)右大臣、同11年(1356年)関白氏長者、同13年(1358年)左大臣、同20年(1365年)辞職、天授3年(1377年)出家。〕。正平5年/観応元年(1350年)9月北朝大嘗会の御禊行幸に供奉した廷臣の中に「正五位下藤原朝臣教基」〔『園太暦』観応元年9月28日条〕とあるのが初見とされるが、これは故実典礼の見習のために北朝に一時出仕していたものか。正平一統下の正平7年(1352年)2月には、左近衛大将として後村上天皇の住吉行幸に供奉し、正平8年/文和2年(1353年)6月南軍の大将として2回目の京都回復を果たした「二条大納言左大将歟兄弟」〔『園太暦』文和2年6月10日条〕とは教基と弟教忠のことと思われる。同年7月には早くも内大臣任官の話が持ち上がっており、官職を超越されることを憂えた右近衛大将洞院実世が書状で父公賢に助力を求めてきたという〔 『園太暦』文和2年7月17日条〕。公賢はこれに対してどうすることも出来ないと答えているものの、教基が正平9年/文和3年(1354年)4月にもなお左近衛大将のままで、大臣に任じられた形跡のないところを見ると、やはり何らかの手は打たれたのかも知れない。 正平11年/文和5年(1356年)2月関白として見任〔『天野山金剛寺古記 』「日経疏第三愚草本」奥書。金剛寺は当時の行宮であり、奥書には、「当殿下」(教基か)が寺中の塔坊を宿所としていたことが見える。〕。正平16年/康安元年(1361年)12月四条隆俊・日野邦光と共に大将として天王寺から入洛し、わずか20日間ながら4回目の京都回復を果たした〔『太平記』巻37「新将軍京落事」。『神護寺交衆任日次第』同月8日条にも「宮方軍勢二条関白、帥大納言師基御息入京」とあり、この関白は教基に比定される。〕。ただし、その間の正平15年/延文5年(1360年)4月に興良親王(護良親王の王子)が叛して賀名生行宮を攻撃した際、南朝は「二条前関白殿」〔『太平記』巻34「銀嵩軍事」。『続史愚抄』を始め、一般には父の師基に比定されている。〕を大将軍としてこれを討伐しているが、この「前関白」が教基であれば、一旦散位を経た後に関白に還補されたことになる。また、村田正志は、正平16年か17年(1362年)頃に書かれたと推定される後村上天皇宸翰消息を根拠として、当時の関白教基が伊勢北畠氏の居館に下向した可能性を示唆している〔村田 「村手重雄氏蔵後村上天皇宸翰の考証」(『村田正志著作集 第1巻 増補南北朝史論』 思文閣出版、1983年。初出は1951年)〕。 その後しばらく後村上天皇の下で関白を務めたようであるが、辞職の時期に関しては史料を欠くために明確にし難い。ただ、天授元年/永和元年(1375年)の『五百番歌合』に出詠した「前関白」、弘和元年/永徳元年(1381年)12月に成立した『新葉和歌集』の作者「入道前関白左大臣」は、教基に比定されるのが通説であるから、この両年間に出家し、弘和元年(1381年)もなお存命していたことになるだろう。「入道前関白左大臣」は同集に13首入集するが、その内容からは、関白に二度任じられたこと(冬・496)、自邸で百首歌を主催したこと(恋一・679)、正平15年(1360年)9月の住吉行幸に供奉して三首歌を披講したこと(賀・1400)などが窺える。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二条教基」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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