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二瀬山 勝語(ふたせやま しょうご、1921年8月7日 - 1975年10月14日)は、大阪府東成郡(現:大阪府大阪市東成区)出身の元大相撲力士。本名は楠田 文雄(くすだ ふみお)。 == 来歴 == 1921年8月7日に大阪府東成郡(現:大阪府大阪市東成区)で生まれる。同郷だった鉄甲宗五郎の弟の世話によって朝日山部屋へ入門、1938年5月場所で初土俵を踏んだ。大きな勝ち越しが無くスピード出世とは行かないものの、地道な努力で1944年1月場所では東幕下21枚目まで番付を上げ、この場所を5勝3敗と勝ち越した。しかし、第二次世界大戦による戦局悪化によって兵役へ取られ、呉の海兵団へ入営した。しかし、呉は相撲が盛んだったことと体格が水兵と大して変わらないことから毎日稽古に駆り出され、ここでの猛稽古がのちに長く幕内を務める力量へ繋がる。1946年11月場所において西幕下2枚目格番付外で復帰、1947年6月場所で新十両昇進、1948年10月場所で新入幕を果たした。 小兵だが上位力士が相手でも容赦なく張り手を繰り出す、闘志を全面に出す取り口で、1952年1月場所では鏡里喜代治を張り手一発で破ったほどだった(鏡里は胡座で座ったまま暫く動けなかったと伝わる)。このように張り手こそが二瀬山最大の武器と思われがちだが、重心の低さを生かした左四つからの吊り出し・うっちゃりも上手かったという。しかし十両では、土俵で塩を取りに行く際に腕をぐるぐる回したり、首を左右に振ったり、足首を爪先立ちして捻ったりと動作に落ち着きが無かった。 1953年1月場所では初日に鏡里喜代治を破ったほか(この場所で優勝した鏡里にとって唯一の黒星だった)、同場所4日目には羽黒山政司と対戦した際に、口の中へ入った羽黒山の親指をとっさに噛んで骨折させてしまった(結果は羽黒山の勝利)。同場所5日目には東富士欽壹と対戦して勝利し、8勝7敗と勝ち越したものの三賞受賞は見送られ、最終的に引退まで受賞できなかった。横綱・大関を倒す力量はあったが、なかなか幕内上位では勝ち越せなかった。1951年1月場所では千秋楽に8日目から7連勝して7勝7敗の栃錦清隆と対戦し、二度の水入りが入る大相撲を演じた。結果出し投げで敗れはしたものの、後年になって「力士生活の中で一番の思い出が、栃錦との一番だ」と語っている。吉井山に強く、10戦して全勝している。 1958年5月場所を最後に現役を引退し、年寄・大鳴戸を襲名と同時に独立して部屋を創立させた。しかし創立直後に師匠・朝日山が急逝したことを受けて、二つの部屋を合併して「新・朝日山部屋」を誕生させた。年寄としては先代・朝日山から引き継いだ高鐵山孝之進を関脇まで昇進させたほか、大鳴戸としての直弟子である若二瀬唯之を小結へ、1974年にはトンガ王国から6人の弟子を入門させて話題になるなど、個性的な力士を多数育成した。 1975年10月14日に死去、。部屋は弟子の若二瀬が継承した。 〔大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二瀬山勝語」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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