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于 学忠(う がくちゅう)は、中華民国・中華人民共和国の軍人・政治家。北京政府では直隷派の呉佩孚の腹心であった。後に奉天派の軍人となるが、張学良の易幟後は国民政府(国民革命軍)に転じた。河北省政府主席として、満州事変(九・一八事変)後の関東軍と折衝を繰り広げたことでも知られる。字は孝侯。祖籍は山東省登州府蓬莱県。 == 事績 == === 呉佩孚の腹心 === 父の于文孚は宋慶率いる毅軍の幇統であった。于学忠も幼年時代から父に従って毅軍に加わり、1904年(光緒30年)、毅軍の随営学堂を卒業した。次いで1908年(光緒34年)に通州速成随営学堂歩兵科に入学し、1911年(宣統3年)に卒業している。〔黄・王(1980)、99頁。〕〔徐主編(2007)、34頁。〕〔劉国銘主編(2005)、21頁。〕 中華民国成立後も、毅軍を率いる米振標の下で于学忠は昇進を重ね、湖北省や四川省で転戦する。1922年(民国11年)、直隷派の呉佩孚により第18混成旅旅長に任命された。1925年(民国14年)10月、武漢で呉が14省討賊聯軍総司令を称すると、于は第26師師長に任命されている。1926年(民国15年)10月、国民革命軍により武昌を失陥させられた呉が河南省へ撤退すると、于もこれに随従し、河南で第9軍軍長兼荊襄警備総司令に任ぜられた。しかし翌年5月に呉は最終的な敗北を喫し、呉・于は四川に逃れた後に下野した。〔黄・王(1980)、99-100頁。〕〔〔劉国銘主編(2005)、21-22頁。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「于学忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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