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于 宝軒(う ほうけん)は、中華民国の政治家。北京政府、安徽派に属し、後に中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となった。字は子昂、志昂。 == 事績 == 幼い頃は四川省で地方官に任ぜられた父の下で暮らす。〔''Who's Who in China 3rd ed.'' (1925), p.950.〕清末の監生(国子監の学生)で、後に日本に留学した。1900年(光緒26年)に帰国し、清朝の巡警部、民政部、憲法修正館などで各職を歴任している〔徐主編(2007)、35頁。〕。 1912年(民国元年)8月24日、于宝軒は内務部僉事に任命される〔『政府広報』第117号、1912年(民国元年)8月25日。〕。また同年には北京政府の内務部警政司科長となり〔、あわせて参議院議員候補に選出された〔''Who's Who in China 3rd ed.'' (1925), p.951.〕。1913年(民国2年)12月30日、内務部民治司司長に任命されている〔『政府公報』第597号、1913年(民国2年)12月31日。〕。1914年(民国3年)中には礼制館第一類編纂〔、立法院事務局評議も兼任している〔1914年12月31日任命。『政府公報』第809号、1915年(民国6年)1月6日参照。〕。1915年(民国4年)7月3日、中大夫の地位を授与された〔『政府公報』第1133号、1915年(民国4年)7月4日。〕。 1916年(民国5年)10月29日に内務部(民治)司長を辞任し〔『政府公報』第295号、1916年(民国5年)10月30日。〕、回復した国会で参議院議員に任ぜられる〔。再び国会が解散された1917年(民国6年)7月26日に交通部秘書となり〔『政府公報』第548号、1917年(民国6年)7月26日。〕、同年12月5日、内務部次長に昇進して〔『政府公報』第679号、1917年(民国6年)12月6日。〕、内務総長の銭能訓を補佐することになった〔。翌1918年(民国7年)2月27日からは籌備国会事務局委員長も兼任し〔『政府公報』第754号、1918年(民国7年)2月28日。〕、安福国会における選挙事務を担当することになっている〔。1919年(民国8年)6月13日、龔心湛臨時内閣で一時的に内務総長を代理したが〔『政府公報』第1207号、1919年(民国8年)6月15日。〕、わずか3日後の16日に内務次長等の各職も含めて辞任した〔『政府公報』第1209号、1919年(民国8年)6月17日。〕。 1920年(民国9年)8月21日、于宝軒は経済調査局副総裁に任命され〔『政府公報』第1624号、1920年(民国9年)8月22日。〕、1922年(民国11年)7月5日には同局総裁代行を務めた〔『政府公報』第2277号、1922年(民国11年)7月6日。〕。同年12月6日、政治善後討論委員会委員に任命され〔『政府公報』第2428号、1922年(民国11年)12月7日。〕、翌1923年(民国12年)9月11日には財政整理委員会委員となっている〔『政府公報』第2695号、1923年(民国12年)9月12日。〕。この他、北京古学院哲理研究会研究員等も歴任した〔。 1938年(民国27年)4月、梁鴻志らの中華民国維新政府に参加し、交通部次長に任命された。1941年(民国30年)5月、汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府において、高等考試典試委員会監試委員を務めた〔。これ以降の于宝軒の消息は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「于宝軒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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