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于斌(う ひん、英語:Paul Yü Pin, 1901年4月13日 - 1978年8月16日)は、中国のカトリック教会の枢機卿。洗礼名は「パウロ」。中国人として二人目の枢機卿である。カトリック南京大司教と、輔仁大学が台湾で復興した時の初代学長等を務めた。 ==生涯== === 生い立ち === 1901年(光緒27年)4月13日、中国東北部の黒龍江省将軍轄区蘭西県(当時はまだ省になっていなかった)に生まれた。字は野声。于家の祖籍は山東省昌邑県の于家荘で、清朝末に、曾祖父の于文成は闖関東により黒龍江省にやって来た。于斌が6歳の時、父親の于水源は亡くなり、7歳の時に母親の蕭氏もこの世を去った。このため于斌は祖父母に育てられたが、生活は豊かではなく、彼もまた他の少年と同じように豚を放牧したが、私塾で教育を受ける機会があった。 1912年(民国元年)、于斌が11歳の時、彼の祖父母は海倫県若瑟屯(今の海北鎮)に転居し、この事は于斌の一生に極めて大きな影響を与えた。若瑟屯はまさに黒龍江省で最も重要なカトリックの村落であり、ちょうど河北省の東閭村、山西省の六合村や察哈爾省の西湾子のように、このカトリック村の大部分の家庭はカトリック信者であった。宗教的な雰囲気は濃厚であり、各教区内の若い司祭や修道女の主要な出身地であった。しかもカトリック教会は、望みのある発展している拠点であると報じていた。辺外の土地である若瑟屯はカトリック村の中で最も年が浅く、1902年になってパリ外国宣教会のルーバン神父(Rev.Roubin,中国名:陸恒之)が創建したが、数年で100戸に上るカトリック信者を導いた。1909年、村に3,000人を収容することができ、鐘楼の高さが43メートルに達するゴシック様式の海北聖ヨゼフ教会が建った。 祖母は若瑟屯に移転してから間もなくカトリックの信仰を受け入れた。すぐにルーバン神父は、于斌が才能があることを見出し、先ず彼が海倫県的高等小学校と黒竜江省第一師範学校で学ぶことを薦め、将来的に村で教師になることを希望した。于斌は14歳で洗礼を受け、洗礼名は「パウロ」であった。彼の字である野声は聖書中の洗礼者ヨハネの「曠野之聲」(荒野の声)に由来する。 1919年五四運動勃発時、彼は18歳でちょうど黒竜江省第一師範学校で学んでおり、学生から学生団の団長に推されて通りで多くの演説をし、省城(チチハル)を風靡した。当時の黒龍江督軍鮑貴卿は彼を逮捕したので、彼は中途退学を迫られ、騒ぎを避けて若瑟屯に戻り、暫くは反物屋の店員をしていた。 1920年、19歳のこの一年に彼は誓願を立て、一生の修道生活を準備した。しかし、彼は家族の中で唯一人の男子だったので、ルーバン神父は彼にこの事を慎重にするように諌めたが、最後に祖母の大きな支持を得ることができ、順調に吉林省城(吉林市)にあった吉林神羅修道院に入学した。学習時間は合計で四年で、先ず小修道院で基礎課程のラテン語を学び、その間に上海震旦大学予科でフランス語を一年学習し、それから再び吉林の大修道院に戻って神学を学んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「于斌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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