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于 毒(う どく、? - 193年)は、中国後漢時代末期の武将。 == 事跡 == 黒山軍(黒山賊)の部将の一人。ただし、常山の張燕の指揮下にあったとは言い難い。 初平2年(191年)、眭固や白繞とともに10余万の大軍を率いて挙兵し、東郡太守王肱を撃破した。しかし、白繞は援軍として出兵した曹操に濮陽で撃破され、曹操が新たに東郡太守となる。 翌初平3年(192年)春、于毒は曹操が頓丘に出陣した隙を狙い、曹操の本拠地であった東武陽を攻撃する。ところが曹操は、さらにその裏をかいて于毒の根拠地を急襲した。慌てて于毒は引き返したが、途中で曹操軍の伏兵に遭い、眭固と友軍の於夫羅が撃破されるという敗北を喫している。 翌初平4年(193年)3月、袁紹軍に所属する魏郡駐屯中の一部の部隊が反乱を起こし、于毒はこれと連合する。于毒と反乱軍は鄴城を陥落させ、魏郡太守栗成を殺害した。また、董卓が任命した冀州牧壺寿とも同盟している。 しかし袁紹が反撃に出ると、反乱軍の一員であった陶升が袁紹に内応したため、于毒らは劣勢となる。同年6月、于毒は朝歌の鹿場山(鹿腸山とも)の蒼巌谷に追い込まれてしまい、5日間の包囲を受けた後に敗北し、壺寿とともに斬られた。 なお、小説『三国志演義』には登場しない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「于毒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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