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于芷山 ( リダイレクト:于シ山 ) : ウィキペディア日本語版
于シ山[う しざん]

于 芷山(う しざん)は、中華民国満州国の軍人。当初は北京政府奉天派の軍人で、後に満州国で要職を務めた。名は世文だが、の芷山で知られる。瀾波

== 事績 ==
若年時代は緑林の一味として活動していた。1903年光緒29年)に清朝に投降して、以後清朝の軍人として経歴を重ねる。1914年民国3年)4月、東三省講武堂に入学した。1920年(民国9年)2月、歩兵上校団長に任ぜられている〔王ほか主編(1996)、23頁。〕。
1922年民国11年)、東三省陸軍第5混成旅旅長となった。1924年(民国13年)、東北独立騎兵第8旅旅長となり、張作霖の衛隊司令をつとめた。1925年(民国14年)、郭松齢討伐の軍功により師長に昇進している。1927年(民国16年)6月、張の侍従武官長となり、陸軍中将位を授与された〔陸軍中将位については任命日が6月6日と記録されている。『政府公報』第3996号、1927年(民国16年)6月7日。〕。10月、于芷山は第5方面軍第30軍軍長として山西省北部の閻錫山を攻撃し、勝利した〔〔徐主編(2007)、28頁。〕。
しかし、翌1928年(民国17年)になると中国国民党北伐軍が優勢となる。同年6月、張作霖は逃走中に関東軍に爆殺された(張作霖爆殺事件)。そのため于芷山は、奉天派の旧拠点に退却した。その後、于は張学良の下で東北東辺鎮守使、東北辺防軍司令長官公署軍事参議官となり、奉天省東北道の20県余りを統括している〔〔。
満州事変後の1931年(民国20年)10月15日、于芷山は「東辺(道)保安司令」を自称、中華民国からの独立を宣言した〔「残存実力派の雄 于氏独立を宣言」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)10月17日。〕。満州国成立後の翌1932年大同元年)3月14日、奉天省警備司令官に任命された〔「東省特別区長官に張景恵氏」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月15日。〕。1934年康徳元年)7月、満州帝国第1軍管区司令官に任ぜられ、翌1935年(康徳2年)には陸軍上将に昇進した〔。同年5月21日、軍政部大臣に任ぜられ〔「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。〕、1937年(康徳4年)7月1日、軍政部改組に伴い治安部大臣となった〔「満州の人事異動 行革に伴い七月発令」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月12日、1面。〕。1939年(康徳6年)4月24日、治安部大臣を退任して参議府参議に転じる〔「満州治安部大臣更迭」『読売新聞』昭和14年(1939年)4月25日。〕。1942年(康徳9年)9月28日に参議を辞任し〔「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊、1面〕、翌29日に張海鵬于琛澂と共に軍事諮議官に任命された〔 「駐日満洲国大使 王允卿氏任命さる」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月30日夕刊、1面。〕。
満州国崩壊後、于芷山は北平に隠れ住んでいた。しかし、1949年10月の中華人民共和国成立後に逮捕されてしまう。1951年5月、撫順戦犯管理所内で病没〔〔王ほか主編(1996)、24頁。〕。享年70。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yu Zhishan 」があります。




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