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保(ほ/ほう)は、古代から中世の日本に存在した地域行政の単位。時代・地域によって異なる意味で用いられた。 *古代律令制における末端行政単位。 *平安京の都城制・条坊制の中に設けられた地割の単位。 *平安時代後期以後に登場した所領の単位。 == 概要 == === 古代律令制における「保」 === 5戸を単位としたことから、五保(ごほ/ごほう)とも称した。5戸をまとめて保という。保長が責任者となって相互扶助・治安や徴税などに関して連帯責任を負った。 中国には秦の商鞅が定めた什伍に源流を持つ唐の隣保の影響を受けて成立したとされている。日本の戸令では「隣」の制度は設けず、郷・里の下に5戸を1単位とした「保」の制度のみを設けている。戸令には唐の規定を元にして「凡そ戸はみな五家相保れ、一人を長とせよ」(戸令・五家条)という規定が設けられていたが、当時の日本では、唐のように「戸=家」という形態になっていなかったために後に問題を残すことになった。なお、25戸以下の僻遠地には里長を置かず保長が代理する規定があった(「古記」)。 保は同じ保に属する戸に関して、戸が逃走した時には3年間は追訪、不在の間はその田を耕して租や調を納める連帯責任を負っていた。また、保内で犯罪が発生した場合の犯罪者の告発と被害者の救済義務や保内の人が他の場所に赴く際や外部の人間を止宿させる場合には相互告知の義務を負うなど、民衆を公民として本貫に拘束するとともに相互監視や貢租確保のための規定が設けられていた。 白雉3年(652年)に五保の制度が導入されたとする『日本書紀』の記述から、中大兄皇子による大化の改新の一環として導入されたとする見方もあるが、この記事自体を後世の脚色(大宝律令からの転載)とする見方もあり、確実な記述としては大宝2年(702年)に作成された御野国戸籍に記されているの(「正倉院文書」)が最古のもので、以後いくつかの保や保長に関する記述のある文献・木簡・漆紙文書が存在するほか、その記録は乏しい。これについては、当時の日本における戸の規模が大き過ぎた(実際には1戸が血縁関係のある複数の家(族)によって構成されていた)ために、地縁的な家をもって編成されるようになり、法文と実体に相違が生じたこととの関係と言われているが詳細は不明である。ただ、戸籍制度が形骸化した時期のものではあるものの、寛弘元年(1004年)に作成された讃岐国戸籍では、保を構成する戸の数は不定でむしろ地縁・地域を重視した編成になっていることを伺わせている。 また、律令法においては出挙や奴婢売買の連帯保証人として最高5名までの「保人」が必要であったことが、公式令に記されている。平安時代の土地売買文書に登場し、その後も用語として定着した「保証」の語はこの規定に由来していると考えられているが、「保人」が「五保」と同一の「保」を意味するのか、別のものなのかについては意見が分かれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「保」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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