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五十川 基(いかがわ もとい、天保15年9月6日(1844年10月17日) - 明治6年(1873年)2月22日)は、幕末・明治初期の備後福山藩士、医師。通称は基之丞、芳之丞。字は敬甫、号は米里。福山医学校兼病院(のちの同仁館病院)の設立に尽力した。 == 経歴 == 備後国に藩医・五十川周圭の嗣子として生まれる。五十川家は代々漢方医を業とし、周圭の代で蘭方に転じた。江木鰐水、寺地舟里の薫陶を受け、藩校・誠之館で学び、文久3年(1863年)10月17日に藩から洋学修業を命ぜられ、江戸の藩邸に寄留し、蕃書調所・医学所に通学修業。佐藤春海(尚中)の塾において、蘭学を修め、転じて慶応2年(1866年)に福沢諭吉の慶應義塾へ入塾(『慶應義塾入社帳第一巻58項,167項』)。同年帰郷し、誠之館の洋学世話取(教授)。明治2年(1869年)には同藩士・江木高遠が慶應義塾に入塾している。 維新後は福山藩の督事官・公議下局議長・政事堂掌吏と重用され、明治3年(1870年)、華頂宮博経親王の米国留学随員・盛岡藩知事の弟南部英麿の従者として渡米。コロンビア大学で在米中にドイツの軍事書『林戦要録』を翻訳出版した。肺結核により29歳で早世した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五十川基」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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