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五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優、映画監督、元子役である〔キネマ旬報社, p.225.〕〔アサヒ, p.199.〕〔映画世界社, p.90.〕〔''五味国男''、''jlogos.com'', エア、2013年6月6日閲覧。〕〔''五味国男''、日本映画データベース、2013年6月6日閲覧。〕〔''五味国男''、''五味国雄''、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月6日閲覧。〕〔''五味国男''、allcinema, 2013年6月6日閲覧。〕〔''五味国男''、''五味国雄''、日活データベース、2013年6月6日閲覧。〕〔''五味國男''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月6日閲覧。〕。新漢字表記五味 国男〔〔〔〔〔〔。クレジットは五味 國雄(新漢字表記五味 国雄)と表記されることもあった〔〔〔。本名小崎 久雄(こさき ひさお)〔〔〔、父を初代とし、二代目 五味 國太郎(にだいめ ごみ くにたろう、新漢字表記五味 国太郎)を名乗ることもあった〔〔。 == 人物・来歴 == 1898年(明治31年)1月2日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる〔〔〔。父は俳優の五味國太郎(1875年 - 1922年)、妹はのちに女優の五味國枝(1905年 - 没年不詳)になった〔〔。生年月日については、初期の文献である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十年一月二日」(1897年1月2日)〔、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』では「明治三十年一月元旦」(1897年1月1日)とされている〔。 新派の舞台俳優であった父の影響下にあって、幼少時から舞台に立った〔〔。1911年(明治44年)から本格的に舞台を始め〔、その傍ら、旧制中学校・東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)に進学し、卒業している〔〔〔。1919年(大正8年)、父が所属していた国際活映の映画に出演し、1920年(大正9年)7月3日に公開された徳富蘆花原作による『灰燼』(監督不明)にも出演した〔。同年6月、松竹キネマが松竹蒲田撮影所を開所すると同時に入社し、本格的に映画俳優の道を歩む〔〔。1921年(大正10年)8月11日に公開された『愛の小唄』(監督田村宇一郎)では主演している〔〔〔。 1922年(大正11年)4月28日、父の國太郎が大阪での公演中に満47歳で急死する〔、2013年6月6日閲覧。〕、國男は松竹キネマを退社し、大阪で舞台公演を行った〔。帝国キネマ演芸が製作・配給し、1923年(大正12年)3月1日に公開された『愛の扉』(監督中川紫郎)に出演しており〔〔、このとき共演した小田照葉(のちの高岡智照)と恋愛関係に陥る〔高岡, p.159-178.〕〔渡邉, p.152-154.〕。しかし、間もなく東京に戻り、同年、日活向島撮影所に入社している〔〔。同年9月1日に起きた関東大震災によって、同撮影所は壊滅し、國男は、再び大阪に戻り、1924年(大正13年)にかけて、帝国キネマ演芸芦屋撮影所に所属した〔〔。 『日本映画年鑑 大正十三・四年』では、帝国キネマ演芸の俳優部に分類されており、このとき「俳優独立のスタヂオを立てゝ、自分の好むまゝの映画を作つて見たい。資本家と云ふものがゐたらば永久にいゝものは撮れぬ」とコメントしている〔。このコメントは、同年に発表された『裸にした映画女優』という書物にも引用されており、「彼れこそは小いさなシトロハイムである」と俳優・監督のエリッヒ・フォン・シュトロハイムになぞらえて絶賛されている〔泉沢, p.123-124.〕。同書によれば、当時、身長五尺四寸二分(約164.2センチメートル)、十六貫(約60キログラム)であったという〔。その後、実際に國男は、1925年(大正14年)から、大阪映画、ミクニプロダクションといった小プロダクションを興し、映画製作も行っている〔〔〔〔。東亜キネマに移籍し、甲陽撮影所から京都撮影所(等持院)に異動している〔〔。 1928年(昭和3年)、牧野省三のマキノ・プロダクションに移籍、『鬼神 前篇』(監督押本七之助)に主演、同作は同年7月13日(6月30日〔)に公開されている〔〔。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、國男は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門、市川米十郎、東郷久義、市川幡谷、實川芦雁、桂武男、市川新蔵、津村博、澤田敬之助、岡村義夫らとともに「俳優部男優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年6月6日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、まもなく同社を退社している〔〔。記録に残る同社での最後の作品は、同年3月8日に公開された 『君恋し』(監督川浪良太)であった〔〔。同年ころ、父を初代とし「二代目 五味 國太郎」と名乗り始めるが、映画には、國男の名で出演していた〔〔〔。 1930年(昭和5年)には東京に再度移り、河合映画製作社に移籍した〔〔。満34歳になった1932年(昭和7年)以降の出演歴は不明であり〔〔、消息は不明である〔〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五味國男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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