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五奉行(ごぶぎょう)は、安土桃山時代の豊臣政権末期に秀吉遺言覚書体制〔宮本義己「徳川家康の豊臣政権運営―「秀吉遺言覚書体制の分析を通して―」(『大日光』74号、2004年)〕に基き、主に政権の実務を担った浅野長政、石田三成ら5人の政治家(奉行職にあたる)的人物達を指して呼ばれる言葉。ただし当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、「奉行」「年寄」などと呼ばれており〔阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年)〕、秀吉は三成らの側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に家康以下の宿老を「御奉行」とよばせることで、勢威の減殺を図ったのではないかと指摘されている〔宮本義己「家康と秀吉―内府゛律義”の真相―」(『大日光』69号、1999年)〕。 == 概要 == 五奉行成立は、小瀬甫庵『太閤記』を根拠にして天正13年(1585年)とされてきたが、桑田忠親が豊臣秀吉の死の直前の慶長3年(1592年)7月に成立されたものと指摘し〔桑田忠親「豊臣氏の五奉行制度に関する考察」(『史学雑誌』46巻9号、1935年)〕、この桑田説が定説となっている〔堀越祐一「豊臣五大老の実像」(山本博文・堀新・曽根勇二編『豊臣政権の正体』柏書房、2014年)308頁〕。豊臣政権では大谷吉継や小西行長はじめ多くの奉行が行政を担当しており、その中でも特に重要な活躍をした5名が五奉行と呼ばれた。5名という数も定まった数ではなく、秀次事件の影響で浅野長政が一時失脚していた際には長政に代わって宮部継潤と富田一白を加えた6名が奉行を務めたとも言われている〔文禄4年7月20日付諸将血判起請文。〕。 職務は、蔵米の出納、治安の維持、徳川氏への対策とされる〔桑田忠親「豊臣氏の五奉行制度に関する考察」(『史学雑誌』46巻9号、1935年)〕。 慶長5年(1600年)に石田三成が五大老の毛利輝元を擁立して関ヶ原の戦いに至ると、長束正家は三成、輝元らの西軍に従軍し、浅野長政は東軍の徳川秀忠の軍に属している。前田玄以、増田長盛の2名は大坂城に在住している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五奉行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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