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五島 玄雅(ごとう はるまさ)は、肥前国福江藩の初代藩主。五島家第21代当主。大浜玄雅や宇久玄雅とも言う。 宇久純定の三男。先代当主五島純玄の叔父に当たる。キリシタン大名でもあった。 ==略歴== 宇久家の分家である大浜家にいた次兄宇久純尭が本家に戻って家督を継いだため、代わって養子となり、当初は大浜姓を名乗っていた。父宇久純定と同様にキリスト教徒。 天正14年12月、秀吉の豊臣姓祝儀のために宇久家から使者として大坂に派遣された。この時、堺奉行の小西隆佐から島津征伐の案内を依頼されたことが縁で、小西氏と知遇を得た。また結果的には島津氏との橋渡しも行ったので、同家とも親しくなった。 第19代宇久純尭や第20代五島純玄に棄教を迫った大叔父宇久盛重と争い、一時、長崎に出奔。しかし島津氏の取り成しで帰参し、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵には参加した。またこの時、純玄と同じく五島と名字を改名した。 文禄3年(1594年)に純玄が文禄の役の休戦期間に天然痘にかかった際には、自ら看病したが死亡し、遺言でその跡継ぎに指名された、しかし玄雅は家中対立の経緯からこれを固辞した。小西行長が説得して、玄雅には嫡男がいたが、従兄弟宇久盛長(宇久盛重の子)の長男五島盛利を養子とし後継者とすることで、反対派を納得させられるとして当主となった。 慶長2年(1597年)、玄雅は豊臣姓を下賜された。慶長の役にも引き続き出征。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは中立を保ち、戦後に徳川家康から所領を安堵されて初代福江藩主となった。 慶長17年(1612年)に65歳で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五島玄雅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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