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五島 盛清(ごとう もりきよ)は、江戸時代前期の交代寄合(大名格)。肥前富江領3,000石の初代領主(藩主)である。 == 生涯 == 寛永5年(1628年)、肥前五島福江藩の第2代藩主・五島盛利の三男として生まれる。兄の五島盛次が第3代藩主となるも病弱で政務不能につき、事実上の執政者として藩政を代行した。 明暦元年(1655年)、盛次が死去すると、甥にあたる五島盛勝が第4代藩主となるが、幼少のために幕命により盛勝の後見人に任じられ藩政を掌理すると、卓越した指導力を発揮して積年の弊風を改革し、また、領海での異国船来航に関わる国際問題を解決させるなど、将軍・徳川家綱からもその功績を賞揚された。 万治3年(1660年)、盛勝が元服し叙任されたため、後見人を辞し藩政から身を引いた。その際、それまでの功績により本藩から1万5,530石の五分の一にあたる3,000石を分与され、富江領(五島富江藩)3,000石の領主・交代寄合となった。〔『五島編年史・上巻』中島功 国書刊行会〕 その後は富江領の基礎固めに着手し、寛文元年(1661年)7月、富江を首邑と定めて、寛文2年(1662年)11月15日に富江陣屋を築き、さらに現在の衆議院第二議員会館がある場所(千代田区永田町)に江戸上屋敷を置いた。寛文3年(1663年)には領国における家臣団の屋敷割りや城下町の建設などを行なった。 延宝7年(1679年)10月16日に死去。享年52。跡を長男の盛朗が継いだ。〔『富江町郷土誌』富江町教育委員会〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五島盛清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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