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五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)とは、法華経如来寿量品で、釈迦の成道の久遠をたとえた語である。正しくは五百億塵点劫である。 法華経の如来寿量品第16に、「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。然るに善男子よ、我(われ)は実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」とあり、続けて「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)りて微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、すなわち一塵を下し、かくの如く、この微塵が尽きんが如き(無くなるまで)、東に行くとしたら、この諸々の世界の数を知ることを得べしや、不(いな)や」と弥勒菩薩に質問している。 これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。「たとえば、三千大千世界のあらゆる地種を、仮に人ありて磨(す)りて墨となし、東方の千の国土を過ぎて、乃ち一点を下さん。大きさ微塵の如し」 この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称される。これに対し、寿量品(本門)の「五百千万億那由他阿僧祇」を、五百(億)塵点劫と称して、化城喩品(迹門)の三千塵点劫よりもはるかに長遠であるかが示されるようになった。 法華経における釈迦成道は「われは実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」と説いており、経文の記述に素直に従うならば、この五百塵点劫はあくまでもたとえ話として出されただけであって、釈迦が成道した時ではない。また化城喩品の三千塵点劫も、たとえ話として持ち出された話に過ぎない。 しかし日蓮は『釈迦御所領御書』などで、「過去五百塵点劫より、このかた、この娑婆世界は釈迦菩薩の御進退の国土なり」などと、五百塵点劫の言葉に開近顕遠の意味を持たせたことから、釈迦が本当に覚った時と解釈されるようになった。 なお一般的に、釈迦はインドで生まれ菩提樹下で成道したとされる。これを伽耶始成、また始成正覚というが、法華経においては、釈迦はそのようなインド応誕の仏ではなく、本当は遠い過去に成道していた、と打ち明ける。これを久遠実成という。 == 関連項目 == *法華経 *久遠実成 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五百塵点劫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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