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五百籏頭 眞治郎(いおきべ しんじろう、1894年(明治27年) - 1958年(昭和33年)10月1日)は日本の経済学者。専門は経済政策、経済思想史、イタリア経済学。神戸大学名誉教授、経済学博士。敬虔なクリスチャンであり、キリスト教所有権思想の研究などを行った。イタリア政府サン・マウリッツ・エ・ラザロ勲章コメンダトーレ章及び教皇庁グレゴリウス・マグヌス章コメンダトーレ章受章。 == 人物 == 大阪出身。5人兄弟の末っ子。五百籏頭家は代々姫路藩士で、度量衡の検査監督の責任者だった。父・五百籏頭治作は明治維新後大阪に出て、石鹸製造業を創業したが、保証人となり貧困となった。 明星商業学校(現:明星中学校)を経て、1917年神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒業、1919年(大正8年)東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。 東京高等商業学校卒業と同時に、母校1919年(大正8年)神戸高等商業学校講師に就任し、月給60円を得る。同教授を経て、第一次世界大戦終戦直後の経済通論研究の命を受け、1920年(大正9年)に2年間の滞在予定で渡仏する。その後、私費で1929年(昭和4年)まで10年間フランス、ドイツ、イタリア、スイス、イギリスなど西欧諸国に留学。高商在学中に飯島幡司や福田徳三との知遇を得て、金融論の研究から出発し、留学中よりトマス・アクィナスの影響を受けた所有権思想の研究などを行う。留学中の大半はイタリアで過ごした。ドイツでは、現地の女性から結婚を申し込まれるが岩下壮一に学業に専念すべきとたしなめられ、断る。 1929年(昭和4年)にルルドを訪れたのを最後に日本に帰国。神戸商業大学教授を務めたが、神戸高等商業学校の大学への昇格運動で忙殺されたことなどで、以後健康状態が悪化した状態が続く。 1940年(昭和15年)には外交官の佐藤尚武や実業家の小林一三とともに、イタリア研究者として学界を代表して政府によりイタリアに経済使節団員として派遣される。その後もイタリアに留まり、教皇庁との公使交換交渉にあたった。同年イタリア政府から一般人としての最高勲章であるサン・マウリッツ・エ・ラザロ勲章コメンダトーレ章及び教皇庁から同じく一般人としての最高勲章であるグレゴリオ勲章コメンダトーレ章を受章。 戦後神戸大学経済学部教授を務めた。1958年(昭和33年)2月に「キリスト教所有権思想の研究」により経済学博士の学位を取得、同年3月に神戸大学を退職し、神戸大学名誉教授の称号受け、南山大学社会科学部長に就任した。5月にブリュッセル万国博覧会の世界ヒューマニズム大会で「日本民族の魂」と題する講演を行い、ルーヴァン大学哲学院からメルシェ記念メダルを授与されたが、途上インドで病に倒れ、ブリュッセルで入院、同年10月に脳血液循環障害のため慶應義塾大学病院で死去。 門下に野尻武敏(神戸大学名誉教授、オーストリア学芸功労第一級十字章)など。子は、5男3女で、長男の五百籏頭禮一は東京大学卒業後、困窮する一家を支えるため東レに勤務。神学者の五百籏頭博治(南山大学名誉教授)は次男、政治学者の五百籏頭真(神戸大学名誉教授、元日本政治学会理事長、文化功労者)は5男。政治学者の五百籏頭薫(東京大学教授)や経済学者の五百旗頭真吾(同志社大学准教授)は孫。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五百籏頭眞治郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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