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五銖銭(ごしゅせん)は中国の古代に流通した貨幣。前118年(元狩5年)に前漢の武帝により初鋳された〔柿沼陽平『中国古代の貨幣: お金をめぐる人びとと暮らし』(吉川弘文館、2015年)〕。量目(質量)が当時の度量衡で5銖であり、また表面に「五銖」の文字が刻印されていることより五銖銭と称されている。 前漢以外にも後漢、蜀、魏、西晋、東晋、斉、梁、陳、北魏、北斉、隋でも鋳造され、唐代の621年(武徳4年)に廃止されるまで流通した、中国史上最も長期にわたり流通した貨幣である。 == 前漢期 == 武帝の時代は積極的な外交政策が採用された結果、外征にともなう歳出が増加し国庫を逼迫させた。その財政立て直しを目的に五銖銭鋳工が計画された。それまで流通していた半両銭に比べ重量を持たせ外周(両面)と内孔(背面)に郭と称する縁取りを加えたのが特徴である。 漢朝は五銖銭の寸法と重量、金属配合を策定しそれを基準として地方での鋳造を認めている。当時は郡国に対し中央へ納付する租税を五銖銭によるものと定めたため、地方での大規模な鋳工につながっている。五銖銭の原料となる銅は既存の半両銭であったため、改鋳すると4/5の目減りになり、改鋳させた五銖銭を納入させることで郡国の経済力削減を目的にしたという学説も提出され、事実五銖銭の鋳造仕様違反で廃立された諸侯も存在している。 当初鋳造されたものは郡国五銖銭と称されている。しかし短期間の歳入増加を目標とした漢朝は前114年(元鼎3年)に赤側五銖銭を発行する。これは1枚が郡国銭5枚に相当する価値をもたせたものであり、租税の徴収や国家歳出には 赤側銭の使用を義務付けている。発行当初は一時的な国家歳入の増加が見られたが、広く流通すると実質的な減少となり、また私鋳銭が行われるようになったことから翌年に廃止されている。 これに代わって発行されたのが三官五銖銭である。前113年(元鼎2年)に鋳造が開始され、その名称はそれまで地方に認めた鋳造を禁じ、上林苑に大規模な鋳銭所を設置し、水衡都尉に所属する三官(鍾官、技巧、弁銅)に鋳造を行わせたことに由来する。地方の旧銭を含む銅を三官に集中させることで私鋳銭を防止させ、貨幣経済の安定化を図る目的であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五銖銭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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