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井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(1870年7月1日) - 昭和9年(1934年)9月11日)は、日本の川柳作家。幼名は七郎、のちに幸一〔昭和女子大学(1973)p.228〕。 著書に『江戸時代の川柳』などがある。 == 生涯 == 明治3年(1870年)6月3日、山口県萩に生まれた。家系は毛利家に仕えていたが、廃藩後に没落、父栄祐は1891年に、不遇のうちに亡くなった〔。 独学で小学校代用教員となり、のちに山口県の新聞社『鳳陽新報』(のち『長周日報』、その後防長新聞に併合されて消滅)に就職して新聞記者となった〔昭和女子大学(1973)p.229〕。同じ頃山県トメと結婚し、3人の子供を授かるも、トメは3人目出産後の予後が悪く、1898年に他界。なお井上はその3年後の1901年に岡ノブと再婚、2人の子供をもうけた〔。同じ1901年には『越後日報』に就職、主筆となった〔。 1903年7月、『越後日報』を退社し新聞「日本」に入社。ここで剣花坊の筆名で新川柳の選者を務めた。なお筆名は、山口県で「争気がある人」を「喧嘩ぼう」といったことから、自らをそれになぞらえて「剣花坊」の漢字を当てたものである〔昭和女子大学(1973)p.230〕。その後退社したものの、客員として同誌の選者を務めた。また他に『國民新聞』や『読売新聞』でも選者を務め、新興川柳の普及に努めた〔昭和女子大学(1973)pp.231-232〕。1905年結成の柳樽寺派の先達としても活躍し、「大正川柳」(のちに「川柳人」に改題)を創刊、新興川柳派を支援した。しかし同誌に掲載された鶴彬の句が治安維持法違反とされたため、同誌は廃刊に追い込まれた。 1929年からは『福岡日日新聞』『主婦之友』『中国民報』でも選者を務めた〔昭和女子大学(1973)p.234〕。 しかし1933年頃から体調不良を自覚し、翌年の1934年には軽い脳溢血を起こして右半身が不自由となった〔昭和女子大学(1973)p.235〕。1934年9月8日に脳溢血で倒れ、9月11日、仮寓の神奈川県鎌倉の建長寺で死去した。没後は妻の信子が後継となり、川柳誌を発行し続け、また川柳作家の鶴彬を支援した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井上剣花坊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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