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井上 良馨(いのうえ よしか、弘化2年11月3日(1845年12月1日) - 昭和4年(1929年)3月22日)は、幕末から明治時代の日本の軍人。元帥海軍大将・従一位・大勲位・功二級・子爵。薩摩国(現鹿児島県)出身。 ==経歴== === 海軍経験を重ねる === 薩摩藩士・井上七郎の長男。幼名は直八。同郷で6歳年下の井上良智海軍中将との血縁はない。名前がよく似ている長州出身の井上馨とも関係がない。 文久3年(1863年)8月に勃発した薩英戦争で初陣を飾り、野津鎮雄(後に陸軍中将)の指揮下で沖小島砲台の警備に就いた。この戦いで薩摩藩はすべての砲台を艦砲射撃で破壊され、9名の死傷者を出した。物的被害に比べて格段に少ない人的被害の中に井上も含まれ、弾丸の破片で左腿貫通の重傷を負った。井上はこの怪我で恐れをなすどころか、イギリス海軍の破壊力と機動力に魅了され、陸軍から海軍に転向することを決意して治癒に励んだ。完治と同時に薩摩藩海軍に入隊し、船乗りとしての基礎訓練を受けた。 慶応4年(1868年)より「春日艦」の小頭を命じられ、戊辰戦争に参戦した。上官に勝海舟門下生の伊東祐亨がおり、大いに影響された。新政府での井上の経歴は伊東の経歴と非常に似通っており、日清戦争の戦功で伊東が突き放すまで、両者はほぼ同時に昇進している。明治3年(1870年)に軍艦を政府の所有物と定めるまでは、新政府海軍の軍艦は各藩の所有物とされていたため、井上は新制度制定まで「春日艦」に乗り続けた。したがって春日艦が戦列に加わった慶応4年1月の阿波沖海戦、明治2年(1869年)3月の宮古湾海戦、4~5月の箱館戦争にすべて参加している。 新制度制定に合わせて「龍驤」乗組に代わり、中尉に任官。「龍驤」で経験を重ね、副長に任命されるとともに少佐まで昇進した。明治5年(1872年)、「春日」艦長に就任。「春日」艦長を2年間勤める。この期間、郷土の名士であった西郷隆盛の征韓論に共鳴したが、新政府海軍の職分を重んじ、西郷に随行することなく「春日」艦長に留まった。任期中に佐賀の乱・台湾出兵が連続して起きたが、春日は鎮圧部隊に召集されなかったため、井上も従軍していない。 明治7年(1874年)10月、艦長として「雲揚」に着任した。政府は朝鮮王朝に外圧をかけるべく、翌8年(1875年)5月に「雲揚」と「第二丁卯」を派遣した。征韓論者である井上は嬉々として釜山に乗り込み、示威砲撃訓練や無断測量などの挑発を重ねて朝鮮西岸へ進出した。同年9月15日、江華島砲台は遂に井上の挑発に屈して反撃し、「雲揚」が応戦して砲台を陥落させた。いわゆる江華島事件である。砲台を陥落させた井上は早速「雲揚」を帰国させ、長崎より顛末を川村純義中将に報告した。 10月、「雲揚」から建造中の「清輝」に乗り代わり、3隻目の艦長となった。「清輝」艦長時代は中断をはさみ4年弱もの長期に渡る。この間に西南戦争が始まり、西郷に共鳴しつつも新政府海軍の中堅士官である井上は、新政府軍を率いて故郷と戦う決意をした。西南戦争は陸軍主導の内戦であり、海軍のできることは海上輸送と沿岸砲撃支援ぐらいであった。井上が指揮する「清輝」は主に宮崎方面で行動し、激戦に加わることはなかった。都城方面に薩摩軍が進入し、延岡と鹿児島の連絡路が分断された際に、細島から鹿児島へ海路緊急輸送を行ったのが目立つ行動である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井上良馨」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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