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井伊 直平(いい なおひら)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国の国人井伊氏当主。井伊直氏の子。井伊直政の曾祖父。 == 生涯 == 延徳元年(1489年)または文明11年(1479年)〔「井伊家伝記」(享保15年、龍潭寺祖山著)および「井伊直平公御一代記」(『引佐町資料』第1集)は75歳とし、墓碑銘(『引佐町史』)には85歳とある。75歳であれば延徳元年(1489年)生まれ、85歳であれば文明11年(1479)生まれとなる。〕 、井伊谷城主・井伊直氏の子として生まれる。 永正4年(1507年)、井伊氏の祖・共保の出生地にある氏寺・菩提所の自浄庵に田畑3反を寄付〔『静岡県史資料編7』436・548頁〕し、井伊保に黙宗瑞渕を招いて自浄庵を龍泰寺と寺号を改めた〔『井伊氏家系史考』〕。 永正8年(1511年)、祝田助四郎に下地を付与し、そのことを祝田禰宜に伝えた〔『静岡県史資料編7』436・548頁〕 。直平の子のうち直宗・直満・直義は、直平に先立っている。直宗は野伏の襲撃をうけて討たれ〔直宗は討たれる前には直平に譲られ当主となっていた。〕、直満・直義は家老小野道高の讒言により今川義元に殺害された。直宗の嫡男直盛は直宗死後当主となり、井伊谷を治めたが、 永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に倒れた。直満の子・直親は直満の死後、信濃国へ落ち延び、成人して弘治元年(1555年)に井伊谷へ復帰しており、養父直盛の死後に家督を継いた。しかし「遠州錯乱」で小野道高の息子・小野道好の讒言により、主君の今川氏真から松平元康との内通の疑いを受け、弁明のためにわずかな供で駿府へ向かう道中の永禄5年12月14日(1563年1月8日)、今川家の重臣・朝比奈泰朝に襲撃を受けて討ち死にした。 長命の直平は子や孫に先立たれ、峻しい運命を辿った井伊家を見つめてきた。直親の嫡男・虎松はまだ幼少であり、永禄6年(1563年)、直平が後見役となる。同年9月18日、今川氏真の命により今川から離反した天野景泰・天野元景親子を社山城に攻めている最中に、75(一説85)歳で没。 家督は直盛の娘・直虎が継いだ。虎松は流浪した末に直虎に代わって当主となり、徳川氏に仕え、のちの徳川四天王の井伊直政となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井伊直平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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