翻訳と辞書
Words near each other
・ 井原市立田中美術館
・ 井原市立高等学校
・ 井原市駅
・ 井原幸治
・ 井原幹雄
・ 井原康秀
・ 井原慎一朗
・ 井原慎一郎
・ 井原慶子
・ 井原放送
井原文之
・ 井原昂
・ 井原昻
・ 井原村
・ 井原村 (岡山県)
・ 井原栄松
・ 井原正巳
・ 井原水産
・ 井原由希
・ 井原町


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

井原文之 : ミニ英和和英辞書
井原文之[いはら ふみゆき]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [い]
 【名詞】 1. well 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
原文 : [げんぶん]
 【名詞】 1. the text 2. original 
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
: [これ]
 (int,n) (uk) this

井原文之 : ウィキペディア日本語版
井原文之[いはら ふみゆき]
井原 文之(いはら ふみゆき、1940年9月16日 - )は、元日本男子バレーボール選手、バレーボール指導者。元富士フイルムの選手・監督。広島県佐伯郡三高村(現江田島市)出身。崇徳高等学校卒。身長167cm。
高校時代は崇徳高校の九人制のバック選手として活躍。レシーブの名手として知られた。1959年、当時は企業名もほとんど知られていなかった富士フイルムに入社。1964年の九人制全日本総合選手でチーム初優勝に貢献したが、会社が翌1965年度を最後に九人制をやめ、六人制一本に絞ったため167cmのレシーバーに出番はなく1966年引退。大卒のエースだった同期の小山勉部長が監督に就任するのとは対照的にバレー部を去り7年間工場勤務。1973年、新興・サントリーによる選手引き抜き騒動からチームを立て直すためコーチとして復帰。1980年監督に就任。当時の日本リーグはサントリーの大古誠司、日本鋼管の嶋岡健治など、かつてのスター選手が監督を務めていたため井原の経歴は異色だった。1981年、どうしても破れなかった新日鉄の壁を破りチームを日本リーグ悲願の初優勝に導く。この後も井原の代名詞とも言われた厳しい指導で、山田修司杉本公雄三橋栄三郎熊田康則川合俊一ら、骨のある若手を鍛え上げ、1983年から空前絶後のリーグ五連覇を成し遂げた。「練習はレシーブばかり」とも揶揄され、口数少なく先に手が出る、とも言われ、しばしば主力選手とぶつかったが、レシーブを主体としたコンビネーションバレーで富士フイルム黄金時代を築いた。Vリーグ創設年の1992年まで指揮を執り監督を退任した。
== 参考書籍・文献 ==

*白球が緑に染まる日、小泉志津男著、日本文化出版、1982年12月
*稲葉バレーの心、稲葉正文、日本文化出版、1982年12月
*青春の色は緑、小泉志津男著、日本文化出版、1986年
*毎日新聞、1982年3月17日18面



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「井原文之」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.