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井口忠仁 : ミニ英和和英辞書
井口忠仁[いぐち]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [い]
 【名詞】 1. well 
: [くち]
 【名詞】 1. mouth 2. orifice 3. opening 
: [にん, じん]
 (n) kernel

井口忠仁 ( リダイレクト:井口資仁 ) : ウィキペディア日本語版
井口資仁[いぐち ただひと]

井口 資仁(いぐち ただひと、1974年12月4日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属する、日本プロ野球選手内野手千葉ロッテマリーンズ 井口 資仁 日本プロ野球機構オフィシャルサイト 2013年12月5日閲覧。〕)。本名は「井口 忠仁」(読み同じ)。
== 経歴==

=== プロ入り前 ===
1974年12月4日東京都田無市(現:東京都西東京市)で生まれる。童話作家の寺村輝夫の次男が、友達や近所の大人を集めて、少年野球チームの「ビクトリー」を作ったが、これに寺村や長男も参加し、寺村が監督になる。その後、「ビクトリー」に入って来たのが小学校の4年の時の井口であり、寺村は「井口君は俺が育てた。」と言う(参照:寺村輝夫)。小学校の4年の時に捕手として野球を始め、中学校まで捕手を務める。小学校の5年の時に少年野球チームの「保谷リトルクラブ」に移籍する。小学校と中学校では最高学年で主将を務める。中学校の3年の時には全国大会に出場。井口は「守備の際に使用するレガースとプロテクターを着けるのが好きで、両親に買ってもらって喜んでいた一幕もありました。」と言うように当時の思い出を話してくれた。
国学院久我山高等学校で内野手になり、遊撃手としてプレーするようになる。2年の夏に3番・遊撃手として全国大会に出場。2年の秋から3年の夏までは主将を務め、3番・遊撃手としてプレーするが、春と夏の全国大会の出場を逃した。
その後、青山学院大学へ進学。高等学校時代に引き続いて、遊撃手としてプレーする。4年の春から4年の秋まで主将を務める。4年の時にはアメリカ合衆国で開催されたアトランタオリンピックで野球日本代表に選ばれ、銀メダル獲得に貢献。この時にキューバ代表のプレーに衝撃を受けたことが後のメジャー挑戦を意識するきっかけになった。また、 同期のチームメイトである澤崎俊和清水将海倉野信次などと一緒に全日本大学野球選手権大会の優勝を始め、多くの輝かしい実績を残した。個人としても、1番・遊撃手の「青い核弾頭」として活躍し、東都大学リーグ史上唯一である三冠王や、リーグ記録となる1シーズン8本塁打などを記録。
大学通算成績は101試合出場、366打数、103安打打率.281、24本塁打、61打点、32盗塁。 東都大学通算24本塁打は現在も破られていないリーグ記録である。また、最高殊勲選手2回、ベストナイン4回の受賞の経験がある。
プロ野球の各チームの争奪戦の末、福岡ダイエーホークスを逆指名した〔朝日新聞、1996年11月14日付朝刊 (28面)〕。1996年のドラフト会議ではダイエーが1位指名で交渉権を獲得し、契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1300万円(金額は推定)で入団し、念願のプロ入りを果たした〔朝日新聞、1996年12月7日付朝刊 (29面)〕。背番号は「7」に決まった。青山学院大学のチームメイトでは澤崎が広島東洋カープ1位(逆指名)、清水が千葉ロッテマリーンズ1位(逆指名)でそれぞれ指名され、同一チームから同時に3人のドラフト1位選手が出た。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「井口資仁」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tadahito Iguchi 」があります。




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