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井土 霊山(いど れいざん、1859年(安政6年) - 1935年(昭和10年))は、日本のジャーナリスト、文筆家、漢詩人、自由民権家。 == 経歴 == 相馬中村藩士の和田祥重の子として現在の福島県で生まれた〔中村城下の上川原町(現在の相馬市中村字川原町)の和田家屋敷で生まれ、明治四年和田家の原町への土着に伴い原町へ。和田祥重は帰農し『農業要録』 を著している。〕。名は「経重」で「霊山」は雅号。字は子常。旧姓は和田であったが、後に秋月藩の江戸詰め藩士の家である東京府麻布区我善坊町(現麻布一丁目)の井土家〔家紋は「丸に細桜」。辻花子(2002: 84-85)によればその祖先は「筑前秋月藩士 井土 七郎右衛門源秋」。〕に婿入りし井土姓となる。このため、井土経重の名でも著作がある。他の表記に井土靈山、井土経重、井土經重、靈山仙史、井𡈽経重がある。 官立宮城師範学校に入学し、二年間の在籍の後、校名変更を経た明治11年(1878年)に公立仙台師範学校(現在の東北大学)を卒業〔若松丈太郎(2002)によれば「おそらく首席で卒業した」。〕。明治14年(1881年)22歳で原町市の初代小学校長(当時の名称で「主長」)に就任する。自由党通信員として自由民権運動に参加。福島事件の年に離郷。警官練習所勤務の後、様々な新聞社で記者や主筆など勤めた後、書や漢詩の素養を持った文筆家として活躍。記者や主筆としては『東京横浜毎日新聞』『改進新聞』『大阪毎日新聞』『実業新聞』『岡山山陽新聞』『中国民報』『やまと新聞』『毎夕新聞』などに在籍する。『やまと新聞』からは経営者の松下軍治を批判して退社〔井土靈山(1911ab)〕。「進歩黨主義の靑年同志倶樂部」の評議員〔朝日新聞1896年12月1日東京版朝刊〕や、東京の日暹協会準備会の世話人〔国民新聞1896年9月6日〕も務める。『和漢五名家千字文集成』は版を重ね、平成1年(1989年)にも出版されている。大正5年(1916年)に雑誌『書道及画道』創刊。昭和8年(1933年)に「南画観賞会」を創立。 日本初の新聞常設コラム「硯滴」(のち「余録」)の創設時の執筆者であった〔「三十五年十月七日から、第二面の下欄に「硯滴」欄を創設した。文章は口語体、社説とは趣きを異にした短評で、初期の執筆者は井土霊山氏であった。井土氏は通信部部員で漢詩人であった。」(『毎日新聞七十年』81頁)〕。 建国大学の開学を33年さかのぼる1905年に満州大学の設立を提唱した。清国における近代の「新智識」の欠乏を清国の国力の発達への障害と捉え、日本で高等教育を受けた「上級」の人材の満州への移植、そしてこれによる新知識の清国満州への移植を唱えた。(『満洲富籤策』25-30頁) 昭和10年(1935年)北豊島郡巣鴨町没。墓所は東京都文京区(当時の小石川区関口台町)の養国寺。東京朝日新聞は霊山の逝去を報じて曰く「漢学者で明治時代の操觚界に知られた豊島区西巣鴨二ノ二〇四〇井土霊山氏は病気療養中二十二日午前零時五分自宅で死去した、享年七十七、告別式は来る二十四日午後二時から三時まで小石川区関口町養国寺で行はれる、翁は福島県の出身、詩書画の大家として知られてゐた」〔東京朝日新聞1935年7月23日東京版夕刊〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井土霊山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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