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前岡 勤也(まえおか きんや、1937年8月13日 - )は三重県亀山市出身の元プロ野球選手。旧姓、旧登録名(1958年まで)は井崎勤也(いざき きんや)。 ==来歴== 中学卒業後、前岡家の養子になり和歌山県立新宮高等学校に進学。新宮高校では、海草中学(現・和歌山県立向陽高等学校)で嶋清一と同期の甲子園優勝メンバーである古角俊郎監督の指導を受ける。古角は同じ左腕である前岡を「第二の嶋」とすることを目指して鍛え上げたという〔山本暢俊『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』彩流社、2007年、P243。〕。2年生時の1954年の夏の甲子園に出場し、準々決勝では延長17回を完封している。3年生となった1955年の夏の甲子園では大会屈指の強打者と呼ばれた坂崎一彦を擁する浪華商業高校を初戦で破り、ベスト8に進出。この2年連続の活躍により、プロ野球球団の激しい争奪戦が起こる。その中で大阪タイガーススカウトの青木一三は、実家の井崎家に通い、養子縁組を解消させるという方法で契約にこぎ着けた〔南萬満『真虎伝』新評論、1996年、P214。〕。この経緯から、入団時に登録名を元の姓の井崎勤也とする。契約金は当時としては破格の700万円と報じられた。 しかし、入団当初に肩を痛めてしまう。青木によると、キャンプ中の2月におこなわれた有料紅白戦に、親会社の希望で先発させたために肩に違和感が出てきたことが原因であるという〔『真虎伝』P215。青木は監督の藤村富美男が親会社の要望を断れなかったと述べている。なお、青木は自著『ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも……』(ブックマン社、1989年)の中では、卒業式後に夜行列車でチームに戻った直後の大毎オリオンズとのオープン戦に先発させられて1死も取れずに降板し、藤村から「700万円ドブに捨てたようなもんや」と言われたと記している。青木は「夜行で着いたばかりの登板は殺生だ。勘弁してやってほしい」と藤村に頼んだが聞いてもらえなかったことを今でも恨んでいると同著で告白している〕。これが尾を引き、1年目は僅か5試合の登板に終わる。1959年に登録名を前岡勤也に変更した。この年にプロ初勝利を完投で挙げた。これが、最初で最後の勝利であった。1960年オフに中日ドラゴンズに金銭トレードで移籍。しかし投手としては成績が残せず、1963年から外野手に転向。1964年に自己最多の51試合に出場するもオフに引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「前岡勤也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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