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井川 耕一郎(いかわ こういちろう〔キネ旬, p.16.〕〔日外, p.142.〕、1962年〔7月27日〔〔〔''井川耕一郎''、KINENOTE, 2015年2月15日閲覧。〕 - )は、日本の映画監督、脚本家である〔〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2015年2月15日閲覧。〕。映画美学校フィクション・コース講師〔。1990年代より主にVシネマの脚本を手がける。監督作品に『寝耳に水』や『西みがき』等の短篇のほか〔、商業映画初監督作『色道四十八手 たからぶね』、脚本作品に『黒い下着の女教師』や『喪服の未亡人 欲しいの…』などがある。 ==経歴== 1962年(昭和37年)〔〔〔〔7月27日、東京都世田谷区に生まれる〔〔〔。その後、千葉県船橋市に移り、1978年(昭和53年)4月、千葉県立千葉高等学校に進学した〔。同校の1学年上に、のちの映画監督の塩田明彦がいた。 同校卒業後、早稲田大学政治経済学部経済学科に進学、同学在学中に早大シネマ研究会に所属、映画製作を行なう〔〔。1986年(昭和61年)に製作を手がけ、福本淳とともに撮影技師も務めた監督・脚本作『ついのすみか』(8mmフィルム、35分)を完成、翌1987年(昭和62年)、同作が第10回ぴあフィルムフェスティバル入選を果たす〔〔〔〔。同作は、同年にはイタリアのトリノ国際映画祭、翌年には1988年(昭和63年)にはベルギーで行なわれたブリュッセル・スーパー8&ビデオ・フェスティバルにも出品された〔。同作の撮影技師をつとめた福本はのちに撮影監督になり、録音技師を務めた山岡隆資は現在は映画監督として知られる〔〔。早大シネマ研究会の先輩にあたる高橋洋によれば、井川は当時から神代辰巳のリハーサル手法に着目し、「俳優の生理に迫って演技を引き出す独自のリハーサルの方法論」を実践していたという〔。1989年(平成元年)8月18日、高橋同様に先輩にあたる島田元が創刊した季刊誌『映画王』に参加、1990年(平成2年)2月18日に発行された第3号、同年5月18日に発行された第4号において、井川は、高橋とともに大和屋竺へのインタビューを行った〔映画王, p.76.〕〔映画王, p.72.〕。 1993年(平成5年)、『のぞき屋稼業』(監督後藤大輔)で商業脚本家としてデビューした〔〔。その後、『女課長の生下着 あなたを絞りたい』(監督鎮西尚一)、『黒い下着の女教師』(監督常本琢招)、『のぞき屋稼業9 恥辱の盗撮』(監督大工原正樹)、『痴漢白書10』(監督山岡隆資)、『片目だけの恋』(監督渡辺護)などの脚本を手がける〔。1998年(平成10年)10月、映画美学校で第2期「演出・脚本部門」講師に就任する〔。2000年(平成12年)、同校の生徒とのコラボレーション作品『寝耳に水』を監督し〔、同年の東京フィルメックスに出品されたほか〔寝耳に水 、シネマトピックスオンライン、2015年2月15日閲覧。〕、2007年(平成19年)に劇場公開される〔。2009年(平成21年)7月2日・15日には東京国立近代美術館フィルムセンターで『ついのすみか』が上映された〔。同年、渡辺護のために『色道四十八手 たからぶね』の脚本を執筆するも、製作が延期になり、同年12月、井川が構成・撮影を務める「渡辺護自伝的ドキュメンタリー」シリーズの撮影を開始する〔糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護 、井川耕一郎、渡辺護公式ウェブサイト、2015年2月15日閲覧。〕。同作は第1部・第2部の長篇のほか短篇8篇を含めた全10部からなり、撮影期間は翌2010年(平成22年)12月までほぼ1年かかった〔。 2012年(平成24年)3月9日、「映芸シネマテークvol.12」として、井川が脚本を手がけた『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』(監督大工原正樹)とともに監督作『西みがき』『玄関の女』が上映され、大工原とのトークを行なった〔。2013年(平成25年)12月7日 - 同8日、名古屋のシアターカフェで「脚本家&監督 井川耕一郎の世界」が開催され、『寝耳に水』『玄関の女』『弱い魂』の3作品の上映と、シナリオ講座および伊藤大輔についてのレクチャーを行った〔。高橋洋によれば、井川のレクチャーには定評があり、「受講生以上に、万田邦敏はじめ講師陣に強い影響を与えてきた」という〔。 井川が脚本を執筆した『色道四十八手 たからぶね』は「ピンク映画50周年記念作品」として製作されることになったが、「ピンク映画50周年」にあたる2012年には製作のめどが立たなかった。その後、準備中であった2013年(平成25年)12月24日に渡辺護が死去、2014年(平成26年)、同作を自ら監督することになった〔。同作は、井川の商業映画初監督作となり、同年10月4日にユーロスペースで公開された〔。2015年(平成27年)1月19日に発表された『映画芸術』誌の「2014年日本映画ベストテン」で、同作は『まほろ駅前狂騒曲』(監督大森立嗣)とともに同率9位に選ばれた〔「映画芸術」2014年日本映画ベストテン&ワーストテン決定!! 、映画芸術、2015年1月19日付、2015年2月15日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井川耕一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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