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井戸 泰(いど ゆたか、1881年9月8日 - 1919年5月4日)は、日本の大正時代の医学者。東京帝国大学助教授を経て、九州帝国大学教授。 大正4年(1915年)、恩師でもある九州帝国大学第一内科稲田龍吉教授と共に、ワイル病(黄疸出血性スピロヘータ病)の病原体を発見する。第6回帝国学士院恩賜賞を受け、ノーベル医学賞の候補にも推薦されるなど、当時の日本を代表する医学者として将来を嘱望されながらも、大正8年(1919年)5月4日、37歳の若さで逝去する。 ==生涯== ===生い立ち=== 岡山県勝田郡北吉野村荒内西(現奈義町荒内西)にあった井戸酒店は酒造業を営み、広大な土地と多くの使用人を抱える資産家、いわゆる「分限者」だった。地元では畏敬と親しみを込めて「酒屋敷」と呼んでいた。明治14年(1881年)9月8日、井戸泰は井戸酒店の長男として、父恒四郎、母たけよの間に生まれる。2人の姉があるものの井戸家には待望の男児だった。 井戸泰は、生来健康と才気に恵まれ、明治29年(1896年)岡山市の岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に進学、この頃から医学を志したと考えられる。後述の千葉医学専門学校(現千葉大学)の伊東徹太(旧姓星島)と岡山中学校時代に同籍している。 明治33年(1900年)、岡山市の第六高等学校第三部(医学部予科)を卒業後、九州帝国大学医学部に進学する。稲田龍吉教授の指導を受け、明治41年(1908年)卒業。その後は同大学第一内科に勤務し、稲田教授と共に研究活動を始める。大正3年(1914年)に岡山県児島出身の雪子(旧姓田川)と結婚、大正5年(1916年)二人の間に長男一郎が誕生する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井戸泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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