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井村 雅代(いむら まさよ、1950年8月16日 - )は、日本、中国、イギリスのシンクロナイズドスイミングの指導者。元選手。大阪府出身。 == 人物・来歴 == 小学校の頃から大阪府の浜寺水練学校で水泳を習い、中学生になってシンクロを始めた。大阪府立生野高等学校、天理大学を卒業。選手としては日本選手権で二度優勝し、公開競技として行われたミュンヘンオリンピックに出場した。大阪市内の中学校(大阪市立喜連中学校、大阪市立住吉中学校)などで保健体育科の教諭を務めた後シンクロ指導者となり、1978年(昭和53年)から日本代表コーチに就任、1985年(昭和60年)からは「井村シンクロクラブ」を創設、競技者育成を行い、独特のスパルタ式指導法で世界的な選手を次々と育てた。長年、日本のシンクロナイズドスイミング界を牽引して基礎を築いてきた代表的な指導者としての実績や功績の大きさから日本の「シンクロ界の母」と称される。 「井村シンクロクラブ」を創設した直後は、専用プールもなく、独立前にコーチとして属していたクラブとの軋轢のせいで「井村にプールを貸すな」というお触れが出ていたためシンクロのできる深いプールを求めて選手を引き連れ大阪中を駆けめぐり、片道2時間以上もかけて練習に通うなど、非常に苦労した。また、元のクラブ時代にロサンゼルス五輪の日本代表コーチとしてソロ、デュエットで日本初の銅メダル獲得に貢献したが、独立後もそれと同等の結果を出すことを目標としており、独立から7年後のバルセロナ五輪でクラブの一員の奥野史子がソロ、デュエットで銅メダルを獲得し、目標を達成した〔「30代の軌跡 井村雅代」 光文社 『DIAS』(2001年12月20~27日号)小山唯史〕。 2004年のアテネオリンピック終了後、日本代表コーチを退任した。 アテネ五輪後、2008年の北京オリンピックに向け、シンクロナイズドスイミング中国代表チームの監督に就任した。長年に渡って日本代表のコーチを務め、日本チームを知り尽くしている井村がライバルである他国代表チームの監督に就いたことについて日本国内には批判的な意見もあったが〔<この人>シンクロナイズドスイミング コーチ 井村雅代 - 中国国際放送局〕〔 井村雅代の新たなる挑戦 - Number Web〕批判に耐えて選手を指導し、オリンピックメダリストを育成。中国においても「中国シンクロチームの母」として知られた〔Friend? Mother? Coach? Either way, Masayo's a winner - China Daily 2012-08-12〕。北京オリンピック後の2008年9月、契約終了にともない中国代表チームの監督を退任。その後は井村シンクロクラブで指導を行いつつ、日本や中国での講演活動も行った。 1996年から2008年まで、大阪府教育委員を務めた。2009年9月1日から松原市の教育委員長に就任した。 2009年2月、NHK教育「知るを楽しむ 人生の歩き方」に「わたしはあきらめへん」と言うタイトルでシンクロをメインとした半生を語った。 2010年9月、5ヵ国からオファーを受け、中国代表のヘッドコーチに復帰し〔5カ国からオファー 井村雅代氏 中国コーチに復帰 - スポニチ〕、2012年8月のロンドンオリンピックで同チームのデュエット銅メダル・チーム銀メダルに導いた〔朝日新聞 2012年8月12日朝刊14版 17ページ〕。 2013年5月、イギリス代表のコーチに就任する〔シンクロ:井村氏、英国代表コーチに - 毎日新聞 2013年05月05日〕。2ヶ月半の指導で、世界水泳選手権デュエットのテクニカルルーティンとソロのフリールーティンを8位に導いた〔英国ペア9位…井村氏、充実感「役に立てたと思う」 - スポーツニッポン 2013年7月26日〕。 2014年2月、日本代表コーチに復帰。2014年アジア競技大会では採点方法が前年度から変更され各国が点数を落とした中、日本は2013年世界選手権を上回る得点を記録した。 2015年1月には、日本水連から16年のリオデジャネイロ五輪のヘッドコーチに起用することを正式に承認される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井村雅代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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