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井田 正孝(いだ まさたか、1912年10月5日 - 2004年2月6日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中佐。後に旧姓・岩田に復した。 == 経歴 == 岐阜県出身。岩田冨士太郎陸軍大佐の四男として生れ、1936年4月、陸軍少佐・井田磐楠の養嗣子となる。大垣中学を経て、1933年7月、陸軍士官学校(45期)を卒業し、同年10月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第1連隊付となる。陸軍砲工学校高等科で学び、1941年12月、陸軍大学校(55期)を優等で卒業した。 第33師団参謀、軍務局課員(軍務課)、台湾軍参謀、第10方面軍参謀などを歴任。 1935年頃より、東大教授・平泉澄の直門として竹下正彦、畑中健二と親交を深める。 1944年1月に大本営移動計画を発案し、富永恭次次官に計画書を提出。大本営の建設場所には松代(現在の長野市松代地区)を選定した〔Vol.60 松代「大本営」着工 本土決戦に備え巨大地下壕 昭和19年11月11日(1-2)- 昭和史再訪セレクション - 地球発 - どらく 2010年8月28日朝日新聞夕刊紙面より〕。 1945年6月、再度、軍務局課員(軍務課)となり、同月、陸軍中佐に進級。 終戦時、ポツダム宣言受諾に反対、「宮城事件」の首謀者の一人となり、近衛師団長森赳中将の殺害に関与。 また、陸相官邸において竹下中佐とともに阿南陸相の自刃を見届ける。 クーデターは失敗し、8月15日に陸軍省で自決する決心をしていたが、これを予期した見張りの将校に止められ断念した。同月、重謹慎30日。同月31日、予備役に編入された。 終戦後は在日米軍司令部戦史課に勤務した後、電通に入社し、総務部長及び関連会社電通映画社の常務を勤めた。1955年になり、離婚して姓を岩田に復姓している。 敗戦後も一貫して、1945年時には本土決戦をすべきだったと主張していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井田正孝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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