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井石 礼司(いいし れいじ、1942年9月5日 - )は、大阪府東大阪市出身の元プロ野球選手。左投左打で、ポジションは外野手。 == 来歴・人物 == 中学時代は野球部と陸上部を兼任していた〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、28ページ〕。天王寺高校を経て慶應義塾大学に進学する。慶應大学では2年秋にベンチ入りし、3年秋からレギュラーとなる〔。東京六大学リーグでは在学中に3度の優勝を経験、同期のエース渡辺泰輔を擁し、1963年の全日本大学野球選手権大会でも優勝している。リーグ通算28試合出場、89打数31安打、打率.348、0本塁打、8打点。ベストナイン2回(外野手)〔。3年秋は規定打席に1打席足りず、首位打者を逃している〔。大学同期に渡辺と佐藤元彦がいる。 1964年の秋季リーグ直前に週刊誌に「プロとの二重契約の疑い」と書かれ、その影響でリーグ戦中に退部届を提出、卒業後に東京オリオンズと契約し入団〔。1965年、1年目の開幕戦から右翼手、五番打者として先発出場、同年はレギュラーに定着するが打率は1割台にとどまる。1966年には規定打席には届かなかったものの打率.256、本塁打10本の記録を残し〔、7試合に四番打者として起用されるなど将来の主力打者として期待された。しかし翌年はやや伸び悩み、1968年には、アルトマン、ロペスが加入して外野の層が厚くなったため、その後は主に代打として起用される。1970年には調子が上がらず、わずか4安打に終わったが、巨人との日本シリーズでは2本塁打を放ち、このシリーズの敢闘賞に輝いた〔。 1972年に広島東洋カープにトレードで移籍するが、結果は残せずに1973年限りで引退した。引退後はゴルフショップ「ゴルフプラザ72」に勤務した〔。 1966年の近鉄戦でプロ野球通算20000号本塁打のメモリアルアーチを放っている(この記念弾にはエピソードあり。下記参照)。一時黒柳徹子の義弟(妹婿)であった。〔チョッちゃんが行くわよ p.213 黒柳朝著 角川文庫刊 1988年 ISBN4-04-171901-1 註:元々1982年に主婦と生活社から単行本として出版された。その後元妻が39歳の時(1983年~1984年)に離婚したとされる http://kingendaikeizu.net/geinou/kuroyanagitetuko.htm〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井石礼司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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