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井野川 利春(いのかわ としはる、1908年3月30日 - 1976年6月16日)は、岡山県玉野市出身のプロ野球選手・監督・審判員。 == 来歴・人物 == 関西中学校在学時代から捕手。明治大学ではレギュラーをつとめる。1932年に卒業後当時九州の実業団で強豪と謳われた門司鉄道局に入局し中心打者となり1936年には監督兼任捕手としてチームを都市対抗野球大会覇者に導いた。その間の1934年に日米野球の全日本選抜メンバーに選出され、全18試合中11試合に出場し、23打数8安打1本塁打,打率.348とチームトップの成績を残した〔ブログ・Kiryu Taroと申す(1934年日米野球試合) 〕。これらの功績が阪急軍の球団首脳の目に留まり1940年同じ肩書きのまま入団。召集される前年の1942年までプレー。 復員後1947年から復帰したがこの時は浜崎真二が監督をつとめており助監督兼任にとどまる。1949年に東急フライヤーズに移籍。その年は選手兼任で指揮していたが1950年から引退して専任に。1951年は大学の先輩で当時総監督として籍を置いていた安藤忍に指揮権をゆだねたが、1952年から再び指揮をとりチーム名が東映となった1954年まで監督をつとめた。 1955年にパシフィック・リーグの東京審判部に入局。1966年まで審判をつとめこの間審判部副部長を務めた〔『朝日新聞』1976年6月17日付朝刊 (13版、23面)〕。1976年6月16日にがん性腹膜炎のため死去〔。享年68。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井野川利春」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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