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ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Josef Anton Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家、オルガニストである。交響曲と宗教音楽の大家として知られる。 ==人物・経歴== 1824年9月4日、学校長兼オルガン奏者を父としてオーストリアのリンツにほど近い村で生まれる。この年はベートーヴェンが交響曲第9番を、シューベルトが弦楽四重奏曲第14番『死と乙女』を書いた年である。しかしながら同じオーストリア帝国とはいえ、アンスフェルデンのブルックナー少年の生活は首都ウィーンの華やかな音楽史とは無関係なものであった。幼少期から音楽的才能を示したブルックナーは、10歳になる頃には父に代わって教会でオルガンを弾くほどになっていた。11歳になる1835年の春にはブルックナーの名付け親で、同じくリンツ近郊の村であるヘルシングのオルガニストであったヨハン・バプティスト・ヴァイスのもとに預けられ本格的な音楽教育を受けることとなる。通奏低音法に基づくオルガン奏法や音楽理論を学ぶ。またこの時期にハイドンの『天地創造』、『四季』、モーツァルトのミサ曲などを聴く機会を持つ〔「作曲家別名曲解説ライブラリー(5)ブルックナー」音楽之友社(1993年3月10日)〕。12歳で父を亡くしたブルックナーは、の聖歌隊へ入る。オーストリアの豊かな自然と荘厳華麗なバロック様式の教会でのオルガンや合唱の響きは音楽家としてのブルックナーの心の故郷となった。 1840年、16歳のブルックナーはリンツで教員養成所に通う。小学校の補助教員免許を取得すると、翌1941年10月というボヘミアとの国境近くの小さな村の補助教員となる。授業のほかに教会でのオルガニストや畑仕事を手伝うかたわら農民たちの踊りにヴァイオリンで伴奏を弾くなどしていた。この当時はヨハン・ゼバスティアン・バッハの『フーガの技法』を研究していた。ブルックナーの交響曲のスケルツォに色濃く現れる農民の踊りの気分は、このころの体験によるものといわれる。 その後ジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を、に管弦楽法を学んだ。1863年ごろからリヒャルト・ワーグナーに傾倒、研究するようになる。さらに1866年、ウィーンで聴いたベートーヴェンの交響曲第9番に強い影響を受ける。 1868年には、ゼヒターの後任としてウィーン国立音楽院の教授に就任。この時以来、彼は大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させた。初期の作品にはヘ短調交響曲(1863年)、交響曲第0番(1869年)、交響曲第1番ハ短調(1866年)、交響曲第2番ハ短調(1872年)がある。 そのなかブルックナーは1873年にリヒャルト・ワーグナーと会見する機会を得た。この際に交響曲第3番ニ短調を献呈しワーグナーの好意を得る。しかしこの行動は反ワーグナー派の批評家エドゥアルト・ハンスリックから敵対視され、執拗な批判を浴びせられ続けることになる。この時期には交響曲第4番変ホ長調(1874年)、交響曲第5番変ロ長調(1876年)を作曲する。 その後1875年からウィーン大学で音楽理論の講義を始めている。1876年に第1回バイロイト音楽祭に出席、ニーベルングの指環の初演を聴く。このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意し、いわゆる第1次改訂の波が起こる。このときに交響曲第1〜5番全てが大幅な改訂を受ける。しかし1877年の交響曲第3番の初演は大失敗し、ブルックナーは激しく落胆する。またその頃、若きマーラーがウィーン大学でブルックナーの聴講に訪れている。 1880年頃になるとウィーンでのブルックナーの地位も安定してくる。多くの教授職、さまざまな協会の名誉会員の仕事により年間2000グルデン(当時の平均的な4人家族の収入が700グルデン)の収入を得るようになる。この頃の代表作は交響曲第6番イ長調(1881年)、交響曲第7番ホ長調(1883年)、テ・デウム(1881年)、弦楽五重奏曲ヘ長調(1879年)がある。なかでも交響曲第7番とテ・デウムはブルックナーに莫大な成功と名声を与え一気にブルックナーの名を知らしめることになった。 1884年からは交響曲第8番ハ短調の作曲に従事する。1887年に一旦完成し、「芸術上の父」と尊敬していた指揮者ヘルマン・レーヴィに見せるが、彼からは否定的な返事が返ってくる。弟子達もこの作品を理解できず、ブルックナーは激しく落胆し再び自らの作品を改訂する。いわゆる第2次改訂の波である。これにより交響曲第1、2、3、4、8番が改訂される。結局1892年の第8番の初演は大成功する。 晩年のブルックナーは多くの尊敬を得ていたが、死の病に冒されていた。この時期には交響曲第9番ニ短調(未完成)やヘルゴラント(1893年)、詩篇150篇(1892年)が作曲されている。ブルックナーは1896年10月11日、ウィーンで72年の生涯を閉じた。生涯を通じて非常に信心深いローマ・カトリック教徒であった。また、晩年に至るまで多くの若い女性に求婚したが、結婚することはなかった。 1950年に発行された1000オーストリア・シリング紙幣と1962年に発行された25オーストリア・シリング硬貨に肖像が使用されていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アントン・ブルックナー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Anton Bruckner 」があります。 スポンサード リンク
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