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亥鼻(いのはな)は千葉県千葉市中央区にある地名。千葉市中心市街地を形成する都川河口低地の左岸に、下総台地から亥の方角に突き出した舌状台地であり、地名もこの地形に由来する。現在千葉大学医学部、看護学部、薬学部のキャンパスおよびこれに附属する千葉大学医学部附属病院、亥鼻公園及び千葉市立郷土博物館等の施設が存在する。JR東日本・本千葉駅の北側一帯の地域に当たり、歴史的には千葉氏の城館(一般的に亥鼻城(いのはなじょう)又は千葉城(ちばじょう)と呼称されている)があった亥鼻の舌状台地と、そこから見下ろす西側の都川河口低地一帯が千葉市本来の中心地に当たる。(熊本城のある茶臼山にあった千葉城とは別) ==千葉氏との関わり== 千葉市の都市としての歴史は、千葉常胤の父千葉常重が亥鼻周辺に舘を築いたのが始まりである。常重が築いた舘の詳細な地は不明であるが、後述の理由により、現在は千葉市立郷土博物館周辺にあった可能性は低く、館跡の候補地として千葉地方裁判所周辺があげられている。 昭和48年、千葉市立郷土博物館の周囲から13世紀代の蔵骨器群に共伴して舶載の褐釉四耳壺が検出されており、これは13世紀代においてこの周辺が墓域として機能していたことを示唆している。また千葉市立郷土博物館の改修に伴う発掘調査時に、14世紀代の掘立柱建物が建てられるようになり、遺物に占めるかわらけの割合が9割を超えていることなどから、館跡ではなく、それに付随する宗教・儀礼的な施設が存在したことが指摘されている。加えて、先述の発掘調査の結果から、15世紀代に入り土塁などが築かれ、城郭として機能したことが明らかとなった。 従来、城館の領域は恐らく現在の千葉大学亥鼻キャンパスの範囲にまで広がっており、構内にある七天王塚と呼ばれる7つの塚が、千葉氏城館の鬼門の方角に妙見信仰の信仰対象である北斗七星を祀ったもの、千葉氏が整備したと考えられている「堀内牛頭天王」を祀ったものであると言われてきた。また、地元では古くから平将門の7人の影武者の首塚との伝承が根強く、祟りがあるものとして恐れられてきた。これらは盛土の状況や石碑から、信仰対象として成立したのは近世初頭の可能性が高く、もともとは土塁の残存であると捉えられてきたが、千葉大学亥鼻地区埋蔵文化財調査委員会の調査により、七天王塚の中心から古墳時代終末期の前方後円墳が少なくとも2基検出されており、これらの塚も墳墓の可能性が高いと指摘されている。 常重の時代までは千葉氏は周囲の土豪の圧迫により千葉郡周辺の本所を守ることに汲々としていたが、その後常胤の時代に源頼朝の呼応に従い、又上総氏等の周辺の土豪が消滅したことから、千葉氏は亥鼻を本拠に下総国、上総国の支配権を確立した。 その後、1455年に千葉氏が本拠地を本佐倉城周辺(酒々井町・佐倉市)に移すまで千葉氏の本拠地として亥鼻の舘が用いられた。 戦国時代に千葉氏と争ってこの地域に進出した里見氏が本佐倉城の千葉氏に精神的圧迫をかけるために亥鼻の舘跡地に出城を築いたとも言われているが詳細は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「亥鼻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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