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京都国立博物館(きょうとこくりつはくぶつかん)は、独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館。1897年(明治30年)5月に開館した。2015年時点の館長は佐々木丞平。 主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示するとともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。平常展示のほかに特別展が1年に2~4回行われている。 == 開館までの経緯 == 1888年(明治21年)、宮内省に臨時全国宝物取調局(局長九鬼隆一)が設置され、日本各地の社寺等の文化財(当時の用語では「宝物」)の調査が行われた。その結果、京都・奈良には特に文化財が集中しており、それらを収蔵保管する施設の整備が急務とされた。こうして当時の日本政府は京都と奈良に国立の博物館を設置することとした。当時、東京には東京国立博物館の前身にあたる博物館がすでに設置されていたが(1872年創立)、1889年(明治22年)5月、宮内大臣通達により、東京の博物館を「帝国博物館」と改め、同時に「帝国京都博物館」と「帝国奈良博物館」の官制が定められた。京都国立博物館の前身である帝国京都博物館が機関として発足したのはこの時である。初代の館長は森本後凋(こうちょう)という人物であったが、同人の在任中は博物館開館以前の準備期間であり、実質的な初代館長は1894年(明治27年)2月に就任した山高信離(のぶあきら)である。1890年(明治23年)には帝国京都博物館の建設地が東山七条の現在地に定められた。この土地は方広寺(大仏)旧境内にあたり、1890年当時は、東半が民有地、西半は七条御料地(旧恭明宮)であった。恭明宮とは、明治初年の神仏分離後、それまで御所の御黒戸に安置されていた仏像や歴代天皇の位牌を安置していた施設である(1870年設置、1876年廃止)。〔『京都国立博物館七十年史』、pp.6 - 17, 43 - 45〕 博物館の本館は片山東熊の設計になる煉瓦造平屋建て、フレンチルネサンス様式の建物で、1892(明治25年)年6月に建築工事に着工、1895年(明治28年)10月に竣工した。諸準備が整い、博物館が開館したのは1897年(明治30年)5月のことである。設計者の片山は赤坂離宮のほか、奈良国立博物館本館や東京国立博物館表慶館の設計にも携わった、宮廷建築家である〔他に、足立鳩吉(宮内省内匠)も設計に関わったとされる(日本建築学会所蔵写真データベース )。〕。本館は当初3階建てで計画されたが、1891年(明治24年)に発生した濃尾地震でレンガ造2階建ての建物が多く倒壊したことを踏まえ、平屋建てに変更された。〔『京都国立博物館七十年史』、pp.46 - 49〕 なお、京都には帝国京都博物館開館以前に府営の博物館があった。府営博物館は1875年(明治8年)、京都御所の御米倉に設けられ、翌1876年に河原町二条下ルの府立勧業場に移転したが、1883年(明治16年)に閉鎖されている。この府営博物館の所蔵品1,000件余は帝国京都博物館に引き継がれた。そのうちには後に重要文化財に指定された銅造不動明王立像、舞踊図小屏風などが含まれている。〔『京都国立博物館七十年史』、pp.7, 8, 58〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「京都国立博物館」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kyoto National Museum 」があります。 スポンサード リンク
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