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京狩野(きょうがのう)は、安土桃山時代末から明治期まで京都で活躍した画家の流派。豊臣氏滅亡後、狩野派のほとんどが江戸に下ったことに対して、京都に留まったため、京狩野と呼ばれるようになった。初代狩野山楽、2代狩野山雪を輩出。また3代狩野永納は日本初の画伝書『本朝画史』を著した。 == 概説 == 豊臣秀吉没後、狩野家の大部分は徳川に仕え、徳川幕府を頼って江戸に下った。狩野宗家を含めてこの一派を江戸狩野という。しかし、秀吉の寵愛を受けた狩野山楽は、そのまま秀頼に仕えた。このため豊臣氏滅亡後、幕府から嫌疑を掛けられてしまうが、松花堂昭乗、九条幸家のとりなしによって恩赦を受け、そののちは九条家や本願寺の御用絵師として京都を中心に活躍する。 2代山雪以降、装飾的な桃山の画風を代々受け継ぎ公卿衆や寺社に仕えるも、幕府の手厚い庇護を受けた江戸狩野と比べるとその勢いに大きな隔たりがあった。また宮廷の御用を得ていたものの、土佐家、鶴沢家に続く家柄でその境遇には大きな格差があった。 3代永納は山雪の遺稿を元に日本初の画伝書『本朝画史』を著したが、これは室町時代以来の狩野家の正系を主張する目的もあったようだ。 4代永敬は、近江日野の高田敬輔を指導。この高田敬輔の門下から、曽我蕭白や月岡雪鼎、島崎雲圃という近年評価の高い画家が輩出した。 流派はしだいに低迷したが幕末9代狩野永岳の代に一時的に復興する。しかしそれも長く続かず明治を迎えると急激に衰退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「京狩野」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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