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京阪5000系電車(けいはん5000けいでんしゃ)は、1970年(昭和45年)に登場した京阪電気鉄道の通勤形電車。 本系列は、日本の鉄道車両で初めてとなる片側面に両開5扉を備える多扉通勤車であり、日本で唯一座席昇降機構を備え、2扉を閉鎖して3扉車としても使用できる構造となっている。 1970年から1980年(昭和55年)にかけて7両編成7本(49両)と事故廃車の代替新造分1両の50両が製造された。急行から普通まで幅広く運行されている。 == 開発経緯 == 本系列設計当時の京阪は、大阪・京都両市内における路面電車との平面交差〔片町で大阪市電、伏見稲荷・七条・四条で京都市電と平面交差していた。これらはいずれも架線電圧600Vであり、京阪側がそのままの状態で1500V昇圧を実施する場合、交差部分の絶縁対策を非常に大掛かりなものとする必要があり、現実的ではなかった。〕の関係上、京阪線の架線電圧が開業以来の600Vのままとされていた。このため、変電所数やき電線の電流量上限などの制約もあって、電圧降下、漏洩電流増大、それに事故電流識別などの観点から1列車の編成両数が最大7両に抑えられており、8両編成化は不可能な状況にあった。 また当時は京阪線の複々線区間が天満橋 - 守口市間のみで、守口市以東の宅地化が急速に進行し沿線人口が急増していたにもかかわらず混雑解消のための施設改良は遅々として進んでいなかった。この結果、京阪線の混雑率は最大で190%に達する〔1970年11月1日に天満橋 - 旧蒲生信号所間複々線化工事(1968年2月21日着工。旧蒲生信号所 - 野江間高架化工事を含む)が完成する直前の段階では混雑率200%というワースト記録も残されている。この混雑率は京阪間ノンストップで、しかも2扉クロスシート車で運行されていた特急を含めた値であり、急行以下の各列車に限れば実質的な混雑率はこれを大きく上回り、乗客は超満員の車内で苦痛に耐えることを強いられていた。なお、本系列第1陣の竣工は同年12月である。〕という凄まじい状況にあった。このため、守口市以東の複線区間では、特に最混雑時間帯における普通列車の乗降時間の増大を原因として、特急・急行を含む全列車のダイヤの乱れが常態化していた。これに対処すべく、1969年より製造が開始された2400系では扉付近の立席スペースが2200系よりも拡大されていたが、これは乗降の円滑化には多少なりとも寄与するものの問題の解決には程遠く、抜本的な解決策が必要とされた。 こうした状況下で、将来的な京阪線の架線電圧の1500Vへの昇圧方針が1969年(昭和44年)4月に決定され、高架複々線区間の寝屋川信号場までの延伸工事も1971年(昭和46年)11月28日に着工されるなど、京阪線の施設改良が本格化した。だが、前者は8両編成化を可能とし車両出力のアップによる速度向上を期待できたものの、その反面在籍全車の昇圧改造ないしは1500V対応の新造車による代替、それに変電施設などの改修を要し、巨額の費用と10年以上の準備期間〔京都市内の市電との平面交差を解消する必要もあったことから、七条以北の京阪線の地下化が完成するとされた1981年以降の計画実施を予定した。ただし、実際には京都市内の地下化は京都市側の都市計画の関係もあって大きくずれ込み、1975年に計画決定、1979年起工、そして1987年5月完成、と当初予定の6年遅れでの完成となった。もっとも、逆に市電が1978年に全線廃止となったことで問題が自然解消したため、京都市内は地上線のまま1983年に昇圧工事が実施されている。〕が必要であった。また、後者についても沿線の宅地化進展で工事用地の確保・買収が困難化しており、こちらも工事完了までに少なくとも7年〔当初計画では1978年の完成を予定していたが、1980年3月16日にようやく複々線化が先行して完成しており、実際には9年を要した。この複々線化の完成によって最大で199%にまで再上昇していた京阪線のピーク時の最大混雑率を一気に186%まで引き下げることが実現しており、複々線化の効果は著しく大きなものであった。〕を要し、むしろ工事に伴う諸作業が営業運転に及ぼす影響が問題となるような状況にあった。つまり、いずれの対策も効果を発揮するようになるまでには10年前後の時間的な猶予を必要としたが、それゆえ当時京阪が直面していた危機的状況の即効薬には成り得ない状況にあった。 かくして、ダイヤ乱れの原因になりやすい普通列車の乗降時間を短縮し、かつ7両編成という限られた編成両数の中でさらなる輸送力の確保を可能とすべく、全車が5扉を備える本系列が開発・新造された。 ただし本系列は昇降式座席をはじめ各部に特殊構造を採用し、またそれらによる重量増を相殺する必要があって当時は高価だったアルミニウム合金製車体としたため、2400系などの既存鋼製一般車と比して製造コストが大きかった。それゆえ財政上の理由から製造両数は最小限とすることが求められ、当時建設中の複々線区間完成までのショートリリーフとして、最混雑時間帯〔列車の京橋到着時刻が7:30から8:30にかけての1時間。〕に運行される遅延の多い普通列車の混雑緩和・乗降時間短縮による定時性確保を主目的とした7編成49両が新造されるに留まった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「京阪5000系電車」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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