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京阪70型電車(けいはん70がたでんしゃ)は、かつて京阪電気鉄道の京津線で使用されていた電車(路面電車車両)である。 == 概要 == 100型の車体を50型に準じた新製車体に載せ替えたもので、70 - 79の10両が製造された。もともとは50型の追加製造を企図していたが認可を得られず(すでに日中戦争中だったため、新車の製造には認可が必要だった)、改造車という名義で実施されたものである。 1943年(昭和18年)4月に守口工場で75が竣工し、続いて同年12月に73が竣工した。残る8両は戦時下の資材不足により半鋼製車体が製造されたのみで完成できず、戦後の1948年(昭和23年)に東洋機械興業(東洋レーヨン(現:東レ)の子会社で、同社滋賀事業場内に所在していたが、現在は存在しない。)により竣工した。 しかし1949年(昭和24年)8月7日に発生した京津線四宮車庫の火災により、72を除く9両が焼失し、翌1950年(昭和25年)1月31日付けで廃車となった。72は火災発生当時、事故復旧のため東洋機械興業に入場して修理を行っていたため偶然に難を逃れたのであった。 残った72は1967年(昭和42年)まで京津線で使用され、80型の増備によって廃車されたが、守口工場の牽引車として使用する事になり、連結器取り付け、パンタグラフへの交換工事を行った上で転用された。守口工場が寝屋川車両工場に移転してからも工場の構内入換車として現在も使用されている。運転席の脇の扉とステップなど木造部品が残っている。 なお、寝屋川工場への移動後に、以下のような改修を受けている。 *車内に電動発電機を搭載するとともに、片側の側面に大型の扉を設置(1974年頃)。自走用主電動機の電源もこの電動発電機の交流200Vを使用。 *架線電圧1500V昇圧に伴う工事と車体更新を実施し、正面の前照灯を屋上から窓下の埋め込みに変更。側面の窓を一部撤去して埋め、通風用グリルを設置(1983年)。 旧72の台車と電動機は、元をたどると京阪創業当時の1型のもので、1910年(明治43年)の製造から100年以上にわたり現役で使用されていることになる〔京阪のウェブサイトでは「大正11年製造」と書かれているが、これは直接の前身である100型の製造年である。参考文献(沖中)の記述によると72号の前身となったのは100型113で、この113は1929年5月の改番前は128を名乗り、さらに旧128は1922年に1型32を改造して作られたものである。1型32は1910年9月に製造された。〕。 2014年9月、寝屋川車庫で進められていた60型(びわこ号)修復プロジェクトにおいて車庫構内で60型を牽引することが発表され、「ワガヤネヤガワ号」という愛称が新たに付された〔「びわこ号」が走り出す! - びわこ号復活プロジェクト(寝屋川市役所ウェブサイト、PDF文書)〕。京阪から発表された資料では、側面の窓と「72」という番号を復元の上、塗装を上半クリーム・下半ブルーに変更した写真が掲載された〔びわこ号復活記念乗車会を11月9日(日)に開催します! - 京阪電気鉄道プレスリリース(2014年9月24日)〕。2014年11月9日の「びわこ号復活記念乗車会」では事前の告知通り、寝屋川車庫構内で60型電車を牽引・推進した〔【動画】京阪電車「びわこ号」44年ぶり復活 ── 中川家 礼二も登場 - THE PAGE大阪(2013年11月17日)〕。ただし、車体すべてが現役当時の仕様で復元されたものではない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「京阪70型電車」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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